3月の雨

 私は昔から恋愛に臆病で、そうなった深い理由などがあるわけではないけれど、しいて言うなら。初めて付き合った彼氏がそれほど好きではなかった人だったというところかもしれない。
 高校生になれば、彼氏なんて自動的にできるものだと思っていた。気付けば皆平等に手に入れるものだと思っていた。だから実際そうではないと分かり、友人から当時の彼氏を紹介してもらった時、まあ顔がいいからという無難な理由で告白を受け入れた。そして彼に対してまったく興味が湧かず、日に日に連絡を取ることが少なくなっていった。彼は私のことを好きだ好きだと言い続けていたし、私はそれを面倒だと思いながらも嫌な顔はせず、自らは一言も好きだとは発しなかった。
 興味がない、会いたくない、連絡も取らない、面倒くさい。その一連の流れがあり、抱きしめられても視線の先はテレビを見つめ、キスをされても微動だにしない自分に嫌気がさし、彼にはメールで別れを告げた。彼は別れたくないと言ったが、私の思いを察して最後は了承してくれた。今思えばとんでもない気まぐれだし、本気で好いてくれた彼には本当に申し訳ないことをしたと思う。
 それから何度か好きな人はできた。けれど嫌われることを恐れた私は、自分の気持ちを伝えることなく独りでに幕を閉じるばかりだった。そして高校生活が終わり、今。大学生活すら終わりを迎えようとしている。
 人生最後の学生生活。春休み。私は3月頭までバイトを続けることを決めていた。数年働いているバイト先のポアロには愛着があるし、何よりマスターや梓さんたちスタッフと離れることが寂しくて仕方なかったからだ。





「あの、ずっと可愛いなって思ってて。よかったら、連絡下さい」

 だからそのバイトの最終日、店でよく見るお客さんからコースターに連絡先を書いたものを手渡され少し戸惑った。お釣りを返す際に言い出されたため、レシートを渡すことを忘れてしまう。恥ずかしそうに顔を赤らめる彼には申し訳ないが、気持ちには答えられそうにない。あいにく梓さんは買い出しに出ている。見渡す限りフロアには私と彼の二人きりだ。
 気まずそうに言葉を詰まらせたせいか、彼の方が口を開いた。今返事はいらない、少しでも気持ちがあれば連絡がほしい。手短にそう言ってくれたので「分かりました」と了承しつつ、どうにか話を変えようとガラス張りになっている店先に視線をやるのに精一杯だった。

「…雨、降ってきましたね」
「うわ、本当だ。結構降ってるな」
「…あ、ちょっと待ってて下さい」

 彼はリュックを背負うだけで、両手には何も持っていなかった。私は置き傘があるのを思い出し、急いで裏の傘立てから自分のビニール傘を引っ張り出す。それを駆け足でレジ前の彼に手渡すと、彼は驚きながら傘を受け取り、丁寧に礼を言った。
 思わせぶりな態度になってしまうかもしれない。けれどそんなことは、びしょ濡れになって風邪をひいてしまうよりはずっとマシだ。

「傘、ちゃんと返します。あの、明日もバイトですか?」
「いえ、実は…バイト、今日が最後で」
「そう、なんですか…」

 そしてまた、雨音と共に気まずい沈黙が流れる。軒からはぽたりぽたりと溜まった雨水が身を投げ、地面に水たまりが広がっていく。お互いどうにもできないまま視線を合わせ、気恥ずかしそうに傘を握り締める彼もまた、本当に助かりますと何度も頭を下げてドアの取っ手に手を掛けた。

「ありがとうございました。またお越し下さい」

 最後に店先からちら、とこちらを振り向いて、名残惜しそうにビニール傘を開いて去っていく。いい返事が出来ない申し訳なさから、せめてもとその姿が見えなくなるまで見送ってみる。そして完全に姿が消えた時、どっと安心感が波のように打ち付ける気持ちに陥った。ゆっくりと侵食した緊張が緩和されていくように、ふう、と胸を撫で下ろす。何とも言えないもやもやを抱えながら空になった席を片付けていると、背後から感じる人の気配にびくりと体が震えた。

「いい返事はできない、のに傘を貸してあげるなんて。優しいんだね」
「安室さん……見てたんですか」

 てっきり奥で備品の補充でもしていると思っていたのに。空のグラスが乗ったトレンチを受け取りながら他人事のように笑うこの人は、人の色恋沙汰を掘り返したいというのか。
 どうして連絡先を渡されたことを知っているのだと問うと、置き傘を取りに来た姿と、その手に握られた数字の羅列が書かれたコースターから推測したと彼は言った。探偵の真似事も、ここまでくればお見事というべきだろうか。

「ほんと意地悪。見てないフリしてくれればいいのに」
「それは無理だよ。結構君のファンもいるって知ってた?」
「もう。それ、一番安室さんには言われたくないです」

 握ったままだった熱のこもるコースターを安室さんからは見えない位置でポケットにしまう。彼は探偵だから全てお見通しなのだろうか。それには一切として触れず、笑みだけを浮かべて人差し指で窓の外を差した。

「それにしても降るね」

 ただただ優しいだけの笑顔で、トレンチを置いたカウンター越しに頬杖をついて私と向かい合う。布巾を握り締めた私は、じわりと滲む水分を手のひらに感じながら揺れる金髪を見つめていた。ポケットから取り出したスマートフォンに指を滑らせ、安室さんは言う。
 「夜中までやまないみたいだよ」1時間ごとに表示される天気予報を片手に、物憂げに呟く。「傘持って来てないや」
 バックルームに張り出されたシフト表を思い返す。インする際にメンバー確認を行うのが癖になっているが、確か安室さんはラストまでだったような。自分はつい今しがたをもって本日の勤務時間を終えたというのに、他に誰が残るのかと考えると、曖昧な記憶は確信へと変わった。

「安室さん、歩いてきたんですよね?」
「ああ。僕はいつもそうさ」

 結び慣れたエプロンの紐を解き、カウンターの隅へ置く。憮然たる面持ちで見送る安室さんは口を一文字に結んだままで、その頬杖を崩すことはなかった。
 最後まで、揺るぎのない瞳で私を見つめる人だった。その目に映るものは何かと聞けないまま、結局別れの日が訪れる。安室さんとはバイト先で会うバイト仲間の一人にすぎない。安室さんにとってもそうだ。シフトがオフの日に会うことはないし、連絡をすることもない。辞めてしまえばもう会わなくなって、時が経つにつれて記憶は薄れていく。そんな人もいたな、いい人だったな、と懐かしんで、思い返すのはそれっきり。私も、安室さんも、そうして互いの記憶から確実に消え去っていくのだろう。悲しいことだと、何処か他人事のように思う私はまだ実感がわいていないだけなのだ。会えなくなってから、じわじわと悲しみが泉のように沸き続けていくのだろう。
 だから自分の傘を手に取って、彼の元へと引き返す私はまだ他人事のように日常の延長線上にいる。柄の細いこの傘は、百貨店で一目惚れした少し高価なものだ。普段使っている傘なら2本買える。それをカウンターの角に引っかけて、上体を起こす安室さんへと冗談っぽく笑いかけた。

「これ、お気に入りの傘なんですけど。安室さんだから貸します」

 照れ隠しなのか自分でも分からない。勢いよくほほ笑んだ後は置きっぱなしだったエプロンを海苔巻のように巻き上げ、そそくさと踵を返した。垂れ目がちの目をビー玉のようにして輝きを放つ安室さんが、何か言いたそうに口を開く。分かってはいたが、気付かないフリをして火照る頬を隠した。せめて最後はただの女の子のままでさよならをしたかった。
 ボタン一つで開く傘のように、あっという間に恋は始まる。雨が降り止まぬ間はずぶ濡れになっても気付かぬほど恋い焦がれ、雨上がりを知っては空を見上げる。淀んだ雲に傘を手で閉じるようにゆっくりと、今回もまた、相変わらず淡い恋心の幕を独りでに閉じようとしている。だったらこれが最後なのだから。自分の気持ちを伝える代わりに、せめて役に立てるなら。
 女の子らしい傘だけれど、先程のお客さん同様、ないよりは幾分マシだろう。むしろ眉目秀麗、十全十美な安室さんならライスシャワーみたいに散りばめられた小花柄ですら私より上手に使いこなしてくれるに違いない。
 店の前にマスターの車が停まる。最後だからと、家まで車で送らせてくれと言い出したのはマスターだった。

「待って、ちゃん」

 ぴくりと跳ねた肩を隠すように、荷物が入ったトートーバックを掛け直す。呼び止められた名前が自分であることに驚いて、急がなくていいとガラスの向こうで笑むマスターに足が止まる。しっかり別れと感謝は告げる予定だった。送別会は別に予定してくれているし、制服だってクリーニングをして返却するのだから、その時に改めてほんの気持ちと挨拶をしようと決めていた。
 けれどここで何も言わず、いつも通りにお疲れ様でしたと帰るのもおかしな話だ。安室さんに声を掛けられて初めて「すいません、今までありがとうございました」と頭を下げ、「次はお客さんとして来ます」と肩をすくめる。安室さんも「ああ、いつでも。待ってるよ」と呆気にとられたが、しばらくして「そうじゃなくて」とカウンターから飛び出すようにこちらに駆けてくる。さらさらの前髪をなびかせ、私の行動を制御するかのように一歩前に立つ。

「今日でバイト、終わりって言ってたね?」
「そう、ですけど」
「残念だなあ。この傘。ちゃんのお気に入りだろう?返さないわけにもいかないよ」

 おどけた表情で両肩を上げる安室さんの手には、手品のように花柄の傘が握られている。早業と探偵は無関係だ。けれど安室さんなら手品師も向いているんだろうなと、今になってどうでもいいことを思った。
 安室さんは、私に傘を返そうというのだろうか。後腐れがないように、大人特有の上手い口実をつけて。どこまでも私の思いは拾い取られることはないのかと、半ば諦めを含んだ右手で傘を迎え行く。けれど安室さんは傘をこちらには差し出さず、代わりにさっきまで天気予報を映し出していたスマートフォンを取り出して、洋画に登場するキザな俳優にも負けない見事なウインクで私を打ち抜いた。

「明日、個人的にさ。食事に誘ってもいい?ああもちろん、この傘を返すことが大前提」

 突然の誘いに言葉を失う。本当はすぐにでも返事をしたいのに、まだ脳が置いてきぼりだ。
 私が安室さんに好意を抱いていたのは事実で、それが天と地の差だということは重々承知している。増してや叶う可能性なんてゼロに等しい。それでもめげずに思い続けられたのは、最後は自分一人で後始末をする覚悟があったからだ。今までと何ら変わらず、自分が零した片思いの破片は自分でちりとりで集めて捨てる。そうして過去の自分と決別して、また社会に一部として生きていく。そういう覚悟があったからだ。
 けれど今回は、どういうわけか安室さんの方からきっかけをくれた。知ってか知らずか、私にチャンスをくれたのだ。私の気持ちに気付いているのかなど分からない。分からないが、安室さんがそれを迷惑だと感じているとは思えなかった。私は、期待していいのだろうか。

「安室さん」
「ん?」
「明日。傘、持ってくるの忘れないで下さいね」
「ああ。でも、忘れたらまたちゃんを誘う口実が出来るかな」

 振り返ると雨は一時的に止んでいた。分厚い雲の切れ間から一筋の光が差し、天使でも舞い降りてきそうな神々しい光の道だった。この光の道しるべは安室さんと似ている。雨雲の間から差す光はゆっくりと細く、か弱くなっていくが、私の心には光が差したままだった。また降り出すのだろうが、もう誰もずぶ濡れになることはないだろう。
 3月の雨の日、傘を持たずに外へ出る。振り返ると、雨さえ似合う安室さんはこちらに分かるように「また明日」と唇を動かして、そして綺麗に笑った。



by 悪魔とワルツを
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