エフェメラ

「罪の共有、しようよ」

 そういった彼もまた、別段悲しそうな切なそうな顔もせず、いつも通りの顔でこちらを見つめていた。
 私は何も言えない。すぐに返事なんて出来なかった。うんも、いやも、何も言えなかった。ただ笑って誤魔化して、少しだけ下を向いて、それからやっと冗談ぽく「だめだよ」と、そう言うのが精一杯だった。何と答えていいのか分からなかった。


 本当に、そんな気持ちはどこにもなかった。
 今日はめずらしくお互い読みたかった漫画をたまたま先に私が手に入れたため、それを渡してさっさと家に戻るはずだった。だからお風呂上がりのスッピンで、部屋着にクロックスという格好で外に出た。家の前には見慣れない車が止まっていて、運転席には見知った顔が座っている。何もおかしいことはない。ただの日常の一コマだった。
 私には彼氏がいるし、高尾にだって彼女がいる。むしろ高尾の方が長く続いている彼女で、私の方がまだ付き合って日は浅かった。高尾は私よりも年下だ。子供っぽいところも軽いところもあるけれど、根はしっかりしているし、ちゃんと区別をつけて接する人だと知っていた。だから接点がなくなった今でも交流があるし、二人で会うということに何の後ろめたさも感じなかった。
 本当に、お互いが本当に何も思わないほど、私たちの関係に名前なんてなかったのだ。
 その夜は久しぶりに会ったせいか、漫画だけを渡して帰るのでは寂しいということで、高尾の車で少し話をすることになった。近くの駐車場に車を止めて、エンジンを切る。その静けさが苦になるわけでもなく、どちらもおしゃべりな私たちは今日あったことや恋人とのこと、おもしろい漫才など話は尽きず、気づけば3時間が経過していた。

「あのさ、2週間くらい前に、急に彼氏から別れた方がいいって考えてるって言われて」

 高尾が自分より年下だということは分かっているし、こんなことを聞いても彼氏の本音が分かるとも思っていない。けれどその時は本当に不安で、誰かにこの気持ちを聞いて欲しかった私は、つい頼るように高尾に相談を持ちかけてしまった。彼氏が何を考えているのか分からない、こんな時男の人はどう思っているのか。そんな答えが知りたくて、彼氏と上手くいきたくて、不安を取り除きたくて。その一心で私は高尾にぽつりぽつりと話し始めた。

「ちゃんと、その後仲直りはしたけどね。今も前より打ち解けていい感じになってる。けど、やっぱ不安なとこもあって…」
「…気になることとか、考え出したらキリないっすよ」
「ん。だよね」
「わかるけど、そゆことは、本当に悪い方向にいってから考えた方がいいと思う」

 高尾は、私が話す間ずっと相槌を打って、話し終わるまで口を挟まずにいてくれた。それが心地よかったかと聞かれればそうではないが、その気まずささえ高尾の優しさなんだと感じることはできた。

「上手くいきますよ。だからあんま落ち込まないで」

 そんな言葉が優しくて、今の私にとっては優しすぎて、涙腺を刺激するには十分すぎるほどのものだった。
 涙は出ない。けれど多分、泣きそうな顔をしていたと思う。高尾は運転席からこちらに手を伸ばして、助手席の私の頭を撫でた。撫でるというよりポンポンと手のひらを置いて、それから「俺、すぐこうやって頭撫でたくなるんすよ。だめだよな」と、困ったように笑っていた。

「だめだね。私が彼女だったら、彼氏に他の子にこんなことしてほしくない」
「そっ、か」
「うん。やめときなよ」
「だって、さんが可哀想で」

 そんな私もまた拒否することなど出来ず、頭を撫でられながら目を細めて笑っていたのだ。それから高尾は「落ち着く頭の撫で方、してもいいっすか?」といつもの笑顔に戻って言った。それに安心した私はもうしんみりした話は終わりだと頷き、「説明してよ」といつものように笑い返した。
 高尾は説明を始める。彼女の頭を抱き寄せて、自分の胸に引き寄せながら頭を撫でるのが好きなのだと。そして伝わらないから少しだけやらせてほしいと私の頭を引き寄せた。なんとなく、言いたいことは分かる。私もこうして頭を撫でられるのは好きだと思った。けれどこんな撫でられ方は彼氏にされたことがないからと、今度してもらいたいなあなんて思いながら高尾からは離れた。それから少し、ほんの少しだけ静かな時間が流れた。
 きっと、ここで終わっておくべきだったのだ。
 本当に私も高尾もそんなつもりはなかったし、そんなことをするために話をしているわけじゃない。だから二度目に高尾が私の頭を引き寄せた時、近づいてきた顔を咄嗟に避けたのは回避でも何でもなかったのだと思う。この時点でもう、どうにかなってしまうことが約束されていたのかもしれない。
 その時はすぐに離れて、高尾も「だめか」と下心があるわけでもない冗談交じりの表情だったし、私も「避けてなかったら危なかったよ」と笑って誤魔化すことができた。けれどどこかで、キスしていてもよかったかもしれないと思う自分がいて、このまま誤魔化し続けたらもうキスはしてくれなくなると感じる自分がいて、自分の気持ちに目を背けたくなった。

「ごめん。今すげえ、罪悪感」
「罪悪感?私に?」
「うん。なんか、こんなことしそうになったことと、彼氏のこと本当に好きなさんに」
「バカ、ほんとだよ、やめよこんなの」
「ははは、だめだよな」

 それでもこちらを見つめている高尾に、どこか期待していた。きっと私が一度でも頷けば、きっと唇を重ねてくれると分かっていたからだ。
 私は彼氏が好きだ。彼を裏切りたくない。自分から後悔することなんてしたくない。なのに目先の誘惑に揺れて、キスをしたい衝動に駆られている自分を実感して、それを堪えることはできなかった。自分は絶対にそんなことはしないという自信があったし、これからもそうだと思っていた。けれどこんなことで揺らいでいるなんて、何度も浮かぶ彼氏の顔に謝りながら首を縦に振ってしまうなんて、なんて酷い彼女なのだと思った。

「……だめだよ」

 口では何とでも言えた。だめだと、もうしないと、これで終わりだと。一度してそれで終わりにしようと思っていたし、それだけなら許されるとどこか甘えを抱いていた。けれど高尾は何度もキスをしてきて、それに私も応えている。「嫌がらないんですね」なんて言わせて、その度にまた、瞳の奥で笑う彼氏に謝り続けた。

「これで、半々っすよ」
「罪の、共有?」
「うん」

 ベンチシートをリクライニングさせて、そのまま抱きかかえられるように高尾に抱き寄せられる。ぴったりとくっついた高尾の体は思っているよりも引き締まっていて、彼氏の体より少し細い気がした。それもまた、何だかしっくりこなくて落ち着きはしなかった。
 唇を重ねて、舌を絡め、上唇を甘噛みする。ぎゅっと抱きしめられたまま、私は慣れない香りに顔を埋めたままゆっくりと呼吸を繰り返した。胸に手が伸びる。それから下腹部から下をまさぐられた時、これは本当にだめだと反射的に私は高尾の手を掴んでいた。それは本当にだめと、そこでやっと拒絶の言葉を吐き出すことができた。

「俺だけを悪者にしてればよかったのに」

 何度も彼氏の顔がよぎる中、高尾の声がずっしりと響いた。謝れば許されるのだろうか。バレなければ許されるのだろうか。高尾が悪いとは少しも思っていない。きっと私が悪いとも高尾は思っていないだろう。ましてや私の彼氏が悪いわけではないし、高尾の彼女が悪いわけではないのだ。
 一瞬の思いを抱いてしまった高尾が悪い。そしてそうさせてしまった私も悪い。お互いがそう思っている。
 高尾とキスをして、抱き合って、そんな時でさえ彼氏の方がいいと思った。キスだって、指先だって、声だって、匂いだって、彼氏の方がいいと強く思ったのに。その後はお互いいつも通り、じゃあすぐに漫画返しに来るからと笑って手を振って別れたのに、一人になった途端、罪悪感と後悔で絞め殺されそうだった。
 やったのは自分だ。自分が苦しむなんて当たり前なんだ。それなのにどうしても彼氏に会いたくなるなんて、早くこの罪を上書きしてほしいなんて、どれほど身勝手な感情なのだろう。
 自分の体から高尾の匂いが消えない。洗っても洗っても、次の日になっても、手のひらからは高尾の匂いがした。私だけが匂う、染みついて消えない罪の香り。それはそんな枷のようなものなのかもしれない。もうこんなことは絶対にしないと心から誓えるけれど、この胸の苦しさと後ろめたさはまだ、当分消えてくれそうにはなかった。

「罪の共有、しようよ」

 私にはこの罪悪感を。後悔を。共有することなんて、できない。



by subliminal
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