揃いの傷跡

 多分、あまりいいことをしているのではないとは思っていた。
 厄介なことに巻き込まれているだけだと本人は言うが、それは本当にいつまでも被害者でいられるようなことなのだろうか。もう共犯者に、いや、加害者に成り果てていてもおかしくないかもしれないのに。それでもずっと、何も知らないような顔をして被害者を偽っていられるのだろうか。
 今日も一緒に帰る約束を切り出したのは高尾の方だったのに、人の気配がない下足室でずいぶんもの間待たされている気がする。だいたいの想像はついた。けれどそれを認めては私に不利なのは分かっているし、傷つくのも私だということも分かっている。だからあえて本人に確認したりするようなことはないのだけれど、もしも今日、また制服が乱れているようなことがあれば、それも回避出来ないかもしれないと私は腕時計に目をやった。

「お待たせ。ごめんな、また待たせちまって」
「いいよ。帰ろ」
「おう」

 そうして現れた高尾の制服は乱れてはいなかったが、シャツの首元がくたびれているようだった。さらっとした髪が少しほつれて、隣を通り過ぎる時にさわやかな制汗剤の匂いが強く漂う。
 ああ、今日もか、と。胸にのしかかるドロドロとした液体のような違和感を無視できず、無言で靴を履き替える。出口ではすでに履き替えを済ませた高尾が待っている。私は何事もなかったように出迎えた時と同じ顔をしてそちらへ向かった。

「もうすぐテスト期間だろ?お前勉強とかやってんの?」

 揺れる私の右手と高尾の左手が無意識に触れ合う。それは一瞬の出来事だったが、私は反射的に右手で拳を作った。

「最近自習の授業多いから、その時気が向いたら」
「あー自習なー。あれだろ、あくまで学校でしかやる気ねえだろ、勉強」
「そうだね。家帰ったら勉強のべの字も見たくないし、結局やらない」
「ははは、同じく」

 高尾は何も気にしていないだろう。けれど私は、今の高尾に触れることが何よりも嫌だった。嫌というより、なんだか触れてはいけないような、私の知る高尾ではない高尾が嫌だったのだ。汚らわしいとは思っていない。思っていないけれど、何の感情も持たずに女の子に触れられる高尾が理解出来なかった。
 合意の上だとは分かっている。いつか本人がぼんやりと言っていた。けれどやはり、このままではきっと。傷つくのは私だけではなくなってしまうのが目に見えている。

「…
「……高尾、さ」
「ん?」

 だとすればその前に、高尾が傷つく前に、高尾が加害者になる前に、止めてあげたいと思ってしまうのはお節介なのだろうか。

「いつも、今日もさ。何してたの」

 そんなことをすれば私も高尾も、もしかすると関係している人全てがいい思いをしないかもしれない。しかしこの一言がきっかけで少しでもこの先の展開が変わればいいな、なんて、そんな甘えしかない考えを持っているのも事実だった。

「…宮地先輩の彼女と、何してるの?」

 おそらく何も変わらないだろう。私の今の立場が失われるだけかもしれない。もう高尾と帰ることもなくなってしまうのかもしれない。けれど少しでもいい。一度だけでもいいから、私という一個人の思いにも気づいて欲しいと思った。本当は知らんふりをして、けれど胸の奥ではその答えを知っていた私のことを。

「……知ってたのかよ」
「高尾は言葉を濁してたけど、だいたいは、分かるよ…」

 泳ぐ視線が定まらない。視点をあちらこちらに漂わせながら、からからと吐き捨てる高尾の声だけを受け止めていた。

「…は、だっせえの、俺」

 知っていた。宮地さんの彼女が高尾を気に入って、上下関係にある高尾に攻め寄ったこと。半ば優しい脅しのような形で高尾を丸め込み、高尾もその彼女の相手をしていること。きっと体だけの関係なのだと思う。いつも少し疲れた高尾の姿を見るたび、隠すように制汗剤や香水で匂いを誤魔化すたび、同じようなことがあったのだと勘付いていた。

が思ってる通りだよ」

 高尾は何か諦めたのか、降参と言わんばかりに立ち止まる。そして足を踏み出す私を制御するように、私の右手首を掴んだ。

「…それって、」
「ああ、こーゆーこと」

 そのまま引き寄せられるように手首を引かれ、高尾の体に肩がぶつかる。足を踏ん張れば耐えられるような弱い力だったにも関わらず、それでもこうなってしまったのは私が完全に気を許していたからかもしれない。

「お前が望むなら、やってやってもいーよ?」

 ゆっくりと顔を上げる。見下ろすように、それでいて何かを捉えるような目が私の視線と交差する。この状態が全てを物語っていたけれど、体が硬直して動けず、顎に添えられた高尾の指に目を反らすことしか出来なかった。

「もうやめろって言いたいんだろ?いつかバレても、傷つく人しかいないって」
「分かってるんだ」
「そりゃな。でも、もう無理だ。ここまで来てはいおしまいって、そう簡単にやめれたら俺だってやめてるよ」
「…宮地さんは?」
「薄々気づいてると思う。けど宮地サンも彼女がそんな女だって分かってて、俺が何の気も持たずに相手してるのも分かってて、 今も知らんふりして付き合ってんじゃねーかな」

 知らないのは私だけだったのだ。だとすれば、始めから私が言うことなど何もなかったのだ。

「…そう。じゃあ、みんな暗黙の了解なんだ」

 それではやはり私の独りよがりで、結局は迷惑なお節介になってしまった。全て見透かしているような気でいて、実際は何もわかっていなかったなんて。無情な仕打ちだ。

「まあ、心配してくれて…サンキュ。不謹慎かもしれねーけど、ちょっと嬉しかったわ」
「…心配じゃない。全然、心配とかじゃない…」
「…そんな顔すんなよ」

 高尾が呟く。お前には知られたくなかった、なんて、そんなことを言うのは野暮だ。今になってそんなことを言われても、私は何も嬉しくはないし喜べもしない。しかしさっき高尾に顔を寄せられた時、顎を掴まれて、細めた目で私を捉えられた時、ああ、このままされるがままにされてもいいやと思ってしまった私もまた、他の女と違わないのだと思った。
 目を瞑って耐えることが私に出来ることだとすれば、白に黒が混ざるのは簡単で、そして灰色なったまま曖昧に。中立の立場を押し通しながら、心は濃い黒に寄せて過ごしていくのだろう。



by 悪魔とワルツを
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