夢から醒めそうな距離で

「俺に、ちゃんの夢を自由自在に操ってあげられる力があったらな」

 怖い夢を見たと言った私に半ば冗談交じりのように、それでも真剣な顔で黄瀬くんが言った。
 ただ何も変わらない平日の学校生活を過ごし、部活終わりの黄瀬くんと彼の家にお邪魔して、黄瀬くんの家族と仲良く晩ごはんをご馳走になった。そんな普通の夜だった。
 時間にすれば短かったと思う。食後におとずれる睡魔に負け、シャワーを浴びる黄瀬くんを待ちきれず彼の部屋で瞼を閉じてしまった。その時に見た夢が恐ろしく不気味なもので、夢の中で私は誰かに追われていた。誰なのか分からない真っ黒な影に、何かを囁く声。それが何を伝えたいのかは理解しきれなかったが、ふと呼ばれた名前に振り向くと、そこから伸びた手に握られた刃物が振りかざされる瞬間だった。やられる、怖い、助けて、と思う暇もないくらい近い距離だった。

「何が起こったのかよく分からなかったけど、多分殺されたんだと思う。でも絶対刺されると思った刃物の痛みはなくて、気が付いたら目を開けてた。そしたら黄瀬くんが私の顔を覗き込んでて、ああ夢か、って」

 目覚めた瞬間、ふんわりとシャンプーの香りがしたのを覚えている。首にタオルをかけた黄瀬くんが立ったまま私を見下ろしていて、「だ、だいじょぶっスか?」と眉間に皺を寄せていた。それから落ち着いたように床に座り直し、彼が作ってきてくれたミルクティーを口に含んでいるのが今である。隣の黄瀬くんはせっかくの温かいミルクティーをミニテーブルに置いたまま、少し神妙な面持ちでそれ見つめている。その後の「俺に、ちゃんの夢を自由自在に操ってあげられる力があったらな」という言葉であって、いつもの黄瀬くんとは少し違うような雰囲気を漂わせていた。何というべきか、やけに静かでおかしいくらいに不思議な感じだった。

「夢の中で自分が死にそうになる時って、その瞬間に気付いたら目、覚めてるでしょ?」
「うん」
「あれって“夢での死”が“現実の死”を招かないためらしいっスよ」
「それって、夢で死んじゃったら実際に夢を見てる肉体も死んじゃうかもしれないから、ってこと?」
「まあ、簡単に言ったらそゆことっス」

 ずいぶん理論っぽいことを言うんだなと思った。何かのテレビで見たことがあるのだろうか。分かりやすいように私の言葉と照らし合わせながら説明してくれるけれど、それにしても何だか変だと思った。いつもの黄瀬くんからは感じられない空気というか、雰囲気というのか。何とも言えない違和感があるのだ。

「俺がちゃんの見る夢を自由自在に操れたら、何でも見せてあげられるのになって思ったんスよ」
「…例えば?」
「例えば、そうっスね…」

 しばらく遠くを見つめてから、思い立ったように口を開くまで、私は黙ったまま彼の言葉を待ち続けた。

「さっき夢で死ぬ前に目が覚めるって話、したじゃないスか。もしあれに逆の答えがあったとしたら?」
「…どういうこと?目が覚めなかったら、って話…?」
「そう。もしも夢で自分が殺されたりして死んでしまったら、どうなるか」

 深く暗い瞳を空虚に輝かせる。続く彼の言葉を予想するけれど、怖くて考えられるものではなかった。
 さっきから感じていた違和感はこれだと、マグカップを握ったまま口に運ぶことが出来ない。取り込まれそうなほどに光を失った彼の瞳が、とてつもなく怖いのだ。

「死ぬんスよ。例えそれが夢だとしても、脳が“死”だと判断してしまえば実際に死んでしまう」

 その時になってやっと、私の夢を自由自在に操ることが出来たらと言った彼の言葉を理解した。もしも私の夢を操ったとして、もしも私が殺される夢を見せて、もしも目覚めさせなかったら。辿り着いた最悪の結末にひっと声を上げたけれど、きっとそんなはずは、いいやありえないと首を横に振った。

「なーんてね。そんな物騒なことするわけないじゃないスか!」

 瞳に光が戻る。「まあ、所詮は脳が錯覚する自己催眠と変わりないんスけど」と言う言葉に、私は素直に笑うことが出来なかった。

「俺はちゃんに楽しい夢を見せてあげたいんスよ」

 初めて見た彼のもう一つの顔に、抱えたマグカップのミルクティー色が小刻みに震える。私は笑顔の裏の真理を見てしまったのだろうか。はたまたそれが、本当の彼だというのだろうか。これだけの会話ではそんなことは到底分かりそうにない。分かるはずなどないのだ。
 私の髪を撫でる黄瀬くんの体温を感じながら、何処か片足を暗い水の底に浸けてしまったような、そんな不気味さを飲み込んでいた。そんな私もまた、これが悪い夢だとでもいうように自分に言い聞かせているのだから。



by エナメル
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