逃げ水

 私だってこうなるつもりはなかった。自分がこうなるとも思ってはいなかった。だってそんなことは自分とはかけ離れた世界のことだと思っていたし、そう至ることに理解がなかったからだ。
 だっておかしいじゃないか。私のことをもう好きではないという男を、どうしてこんなにも思い続けていられるのだろうか。あんなに好きと言ったくせに、なんて言えばどこかの失恋ソングみたいだけれど、そんな歌詞が頭によぎるほど彼は最初、私に首ったけだったじゃないか。
 なのに、いつから。何の変化があってズレが生じ始めたのだろう。

「可愛いなって、思ったよ。年下になんかこれっぽっちも興味のない私に振り向いてほしくて、そっけない返事にもどんどん会話を広げようとしてくれてさ。なのに私が弱ってる時にはいつでも言葉をくれて、俺がいるからって励ましてくれるわけ。本当に、そんなことされ慣れてないから参っちゃって。なんで年下なのにこんなにしっかりしてるのって。ちゃんはちゃんと頑張ってる、とか言われたら、そんなの嬉しいに決まってる」

 涼太くんと別れてもう1ヶ月が経った。
 今更ヨリを戻そうなんて考えは浮かばないけれど、もしかしたらまた、涼太くんがもう少し大人になったら、なんて考えることはたまにある。今の私と同じ年になった時、私の気持ちが分かる時がくるのかなあなんて、そんなことを思う。

「付き合った最初にデートしたっきり、デートらしいデートはしなかった。夜に会ってちょっとドライブとか、たまに映画見に行ったりとか、お互い実家暮らしだからホテル行くとか、ほんとそんな感じ。毎日連絡は取ってくれたけど、会うのは2週間に1回くらいだったかも。酷い時は1ヶ月弱会えない時もあって」
「実際どのくらい付き合ってたの?」
「半年。でも会った回数を考えたら、たかが2ヶ月くらいのものなのかもしれない」

 久しぶりに会った伊月は目の前のマイクを遠くに置いて、手前に飲み物を置き換えた。カラオケ特有の動画が流れ続ける。私はストローでメロンソーダをかき混ぜながら、涼太くんは栄養ドリンクが好きだったな、なんて、そんなことを考えていた。

「お互い社会人だし、いろいろむずかしいんだろ」
「と、思いたいんだけどね。私はバカみたいに涼太くんが好きだったから、会えると言われればいつでも会うよって感じで。でも涼太くんは疲れてる時には会いたくないし、そう頻繁に会ってくれるタイプじゃなくてさ」

 簡単に言ってしまえば、涼太くんは釣った魚に餌をやらないタイプだと友達は言った。私もそんな気はしていたけれど、それは私が餌をやらなくなった涼太くんからどうにか餌をもらおうと、甘やかしすぎたことに原因があるのではないかとも思う。やらない方もあれだが、やらないことに不満を言わない方も悪い。
 だから涼太くんは思い上がっていたのだと思う。もうこいつは俺のことが好きだから、俺が言えば何でもするし、何でも許すだろうと。逆に言えば、私は年上だからちょっとやそっとのことじゃ動じないし、気分屋に振り回されることにも黙って付き合ってやろうと思っていた。そこが私たちのズレの始まりだったのだろうか。
 私の誕生日に涼太くんは傍にいてはくれなかった。その3日前から出張で地元を離れると言われてしまえば何も言えない。本当にごめん、帰ってきたらちゃんとお祝いするから待ってて、なんて言われたら不満を言うことすら出来なかった。帰ってきて、抱きしめられて、たくさんの言葉をもらった時にはもういいやって思えたからだ。実際、プレゼントをもらえることはなかったのだけれども。
 その後くらいからだっただろうか。急に涼太くんとの距離が開いたと感じるようになったのは。急に別れを切り出されることは以前にも一度だけあった。その時は私も何が何だか分からず、必死に考え直してと粘ると涼太くんはごめんと謝ってくれた。今回もきっと、そんな気分の浮き沈みなのだろうと落ち着くまで待つ覚悟は出来ていたけれど、その時はきっぱり距離を置きたいと言われたのだ。

「どうしたの」
「距離置くことにした。その時は何言っても無駄だと思ったから。けど何日かして、このまま黙ってるんじゃだめになっちゃうんじゃないかと思って、私から連絡したんだ。思ってることちゃんと伝えた」
「じゃあ何て?」
「俺は今でもちゃんが大好きっスよって。拍子抜けな答え。あと謝りたいって思ってたって。なんか、良かったって思ったけど、なんでこんなことであんなに悩んでたんだろうって正直むかついた」

 それで表面上は仲直りしたはずなのに、内面的な距離は埋まってはいない感じが続くことになる。毎日取っていたメッセージも内容がなくなり、返事の頻度も減った気がした。会えばすごく優しいし、いつも通りの涼太くんなのに、どこか今までとは違う感じがするのだ。言葉にすれば難しいけれど、あのいざこざの時からきっと涼太くんは、もう私と心から復縁しようとは思っていなかったのかもしれない。
 気付いていた。多分もう、私に興味がないのだと。
 私が何度か会いたいと言った内の一度だけ会って、少し話をして、セックスをして、眠そうな顔で私を家に送り届ける。別れるまでの1ヶ月は何度かそれの繰り返しだった。次は出かけよう、次はあそこに行こうと言って、その次は絶対におとずれない。今日手を振れば次会えるはいつだろうと、考えることはそればっかりになっていた。
 彼女のはずなのに、都合のいい女。きっと涼太くんの目には私は彼女として映っていない。気付いていたのに、どうかそうではなければいいと思い込んで、涼太くんを美化し続けた。こんな関係でも私を彼女と呼んでくれるのなら。そんなおかしな思考に辿り着くほど、涼太くんとの別れが怖かったのだ。

 次に会う約束をした日、涼太くんから返事が来ることはなかった。その日は土曜日で、なんだかあまりいい雰囲気ではなかったから、翌日の日曜日、お互い思っていることを話し合おうと心に決めたちょうど後だった。
 私は振られることになる。長文だけれど簡単なメッセージで、いとも簡単に別れることを許してほしいと謝罪される。少し前から仕事が忙しくなって、自分の時間も私との時間も上手く取れない。それに私への好きが友達としての好きに変わってしまった。だから最後まで我が儘だけれど、次に会う時は彼氏彼女ではなく、友達でいてほしい。そんなことが書かれていた。

「おかしいよね。私とはずっと仲良くいたいから、気まずい別れ方は嫌だって。だから笑って別れたいとか言われた。意味分かんない。のに私は、涼太くんとの繋がりが消えるのが怖くって、それを了承することしかできなかった。そこまで言われたら彼女でいられる余地ないねって。付き合う前に戻るだけだねって、にこにこした絵文字つけて送ってた。結局、ずっと私は都合のいい女を演じていただけなのかもしれない」

 その次の日、お昼ごはんを食べながら私は泣いた。同僚が優しい言葉をかけてくれるから、涙が止まらなかったのだ。
 ふとした瞬間に襲ってくる悲しさ。毎日届いていた涼太くんからのメッセージは来ない。指の間をすり抜ける柔らかい髪の毛を、私の親指と同じくらいの小指を持つ大きな手を、素直すぎるくらいに思ったことを伝えてくれる言葉を、いつも別れ際には帰ったら連絡すると言ってくれる気遣いを、思い出しては涙が溢れてくるのだ。
 基準はいつだって涼太くんだった。きっとこの日は会えるからと、友達と遊ぶ予定ずらしたりもした。何度も約束を変更させられて振り回されたけれど、会えばどうだっていいほどに嬉しかった。けれどもうそう感じることもない。周囲に褒められることが一度もなかった彼氏だったけれど、私にとっては大好きな彼氏だったのだ。もう私の涼太くんではないのだと、考えるだけで切なさで押し殺されてしまいそうだった。

「それでね。ついこないだ、涼太くんからメッセージが来たの」

 引きずっていた、という言い方は大袈裟かもしれない。消化不良なりに少しずつ消化していたから、その頃になると私の中の涼太くんはどんどん過去の涼太くんになっていた。あの頃に戻りたいとも、ヨリを戻したいとも、皮肉なことにほとんど思わなくなっていた。けれど深層心理は正直なもので、数ヶ月毎日見てきた涼太くんの文書を見ると心が揺さぶられる。懐かしさと切なさと、何とも言えぬ困惑が入り混じり、とても複雑な気分だった。
 涼太くんは私を少し恋しく思っているらしい。それは紛れもなく都合のいい女を演じていた私に対しての感情で、彼もまた、同じように私を美化し続けているのだ。

「それを読み終わった自分が、正直すごく冷静でびっくりした」

 結局はお互い様だった。仮面を貼り付けていたのは私だけではなく、涼太くんもそれを剥ぎ取れずにいたのかもしれない。手放した石ころが自分の中でどんどんと輝き始め、ついには宝石に成り替わる。そうして手の届かない宝石となった私は、涼太くんにとって二度と掴めない夢のような存在なったのだ。そこまで綺麗になって、気高い存在になった仮面の私に、涼太くんは思いの丈を伝えてきたのだ。

「涼太くんは自分の態度を反省してるみたいだった。それを踏まえて、私とは違う出会い方をしたかったなって。そうしたら、絶対私と結婚してたんだって」

 それから最後を締めくくるように、胸を張って言えるくらいの彼氏を作って幸せになってと添えられていた。それを読んだ私は驚くほどに無表情で、多数に送られた連絡事項を確認するのと同じように画面を閉じていたのだと思う。
 どうして涼太くんにそんなことを言われないといけないのかと。苛立ちさえ覚えていた。
 もうこれで綺麗さっぱり忘れられた。未練なんて何一つない。涼太くんからの最後まで上から目線のメッセージを見て、とうとう私は自分の仮面を剥ぎ取ることが出来たのだ。美化し続けた涼太くんも消え去っていく。私はもう、この人とは何の未練も残さず断ち切れたのだと思えた。

「恋愛って、皮肉だな」
「そうだね。崩れ落ちてからがすごくあっけないよね」
「でもよかったと思うよ。俺は。最後に向こうから連絡がきて、がそうやって吹っ切れて」

 新しい彼氏と付き合って、やはり涼太くんとの交際は異常だったのだと身をもって感じた。洗脳され、周りの意見を一切聞かずにのめり込んでいく詐欺のように、友達から何を言われてもそれを右から左に聞き流し、たった一人の涼太くんを基準だと思い込んでいた。私は開放されたのだ。涼太くんというマインドコントロールから、徐々に一般的な思考へと順応している。
 涼太くんはどうだろうか。私への未練をぶつける純粋な彼でいるのか、懲りずに次の私を探しているのか、今となっては知る由もなかった。



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