自分の中の天使と悪魔が囁き合うというが、このことなのかと自嘲的な笑みが零れる。実際そう簡単に諦められるようなものならば、こんな葛藤をすることもない。となると俺は当たり前のように彼女を奪うというのか。否、そんなデメリットに満ちた選択が出来ないのも俺であり、 結局は自分と彼女のどちらも大切で、どちらも傷つかないような結果を求めているのだ。そんな答えは、いくら探しても見つからないというのに。
「ほんと、いっそ傷付け合ってくれないっスかね」
そうして彼女が俺に泣きついてこればいいのに。もう嫌だ、何もかも忘れてしまいたい。そう言ってぽろぽろ涙を流したら、俺が世界中のどの男よりも優しく抱きしめてあげられるのに。
「黄瀬くん」
「ああ、どうしたんっスか、ちゃん」
「うん。今日練習何時くらいに終わるかなーと思って」
正直彼女と出会ったのは俺の方が早かったし、目を付けたのも俺の方が先だった。大抵の女の子は俺が自ら近付けばあからさまに目の色を変えて接してくる。勝手に自分は特別だと思い込み、勝手に惚れられ、勝手に彼女気取りで隣を歩いてくる。最初は俺に興味のない子だとしても、少し手を出せばころっと「好き」とか火照った唇で吐き出すのに、どうも彼女は無関心のまま俺ではない男を見つめていた。
正直、気分は最悪だった。
「早めに切り上げるんじゃないスか?今日監督いないし」
「そっか。ありがと」
俺ではない男の顔を浮かべ、早めの帰宅に口元を綻ばせる。
ねえ、なんでそんな顔出来るんスか。俺じゃないやつのこと考えて、そんなに楽しいんスか。ちゃんが馬鹿な女だったら、その喜びも悲しみも、言葉一つで変わるその顔だって全て俺のものだったのに。見下ろすくらいの華奢な体を抱きしめて、髪を撫でて、俺のこと好きになってよって、聞いたことのないくらい切ない声で囁いたら、俺のこと好きになってくれないかな。
ちゃんを目の前にして高鳴る鼓動を誤魔化し、いつもの“ともだち”の顔をしている化けの皮を剥がしたら、 その下にはどんな俺がいるのか。ちゃんの絶望を望み、それでいてそのチャンスを願っている俺に気付いたら、ちゃんは軽蔑の目で俺を見るのだろうか。
俺なら絶対後悔なんてさせないのに。本当に、現実は理解出来そうになかった。
「おー、どうした?」
「先輩、」
俺の先輩である森山先輩は好きだ。
ふざけたことを言うけれど、取り組んでいる姿は誰よりもかっこいい。それに俺のことを信頼してくれてるし、フォローも的確ですごく上手い。俺はそんな森山先輩を尊敬していて、同時にかっこいいとも思っている。ちゃんに声をかけることすら自然すぎて、自分が歪に感じてしまう程だ。
「今日練習、早く終わるの?」
「笠松はそのつもりらしいけど。一緒に帰る?」
「うん、帰る!」
けれど、ちゃんの彼氏である森山先輩は嫌いだ。
ちゃんの良さに気付いたのは俺より遅いくせに、難なく目の前から掻っ攫っていった男。俺の呼べない名前で呼んで、 俺が触れられない頭を撫でて、俺の知らないちゃんの顔を知っている。彼女を喜ばせるのも、幸せにするのも、全てこの男だと思うと憎くてたまらなかった。その手で、指で、唇でちゃんに触れるのか。彼女はそれを受け止めて、「先輩大好き」なんて頬を赤らめるのか。想像するだけで反吐が出る。そこにいるのは俺であるべきなのに、俺は何食わぬ顔をして二人を見守れる精神を身につけてしまったなんて。
「仲、いいっスね」
もし今ここで俺がちゃんの手を掴んで、腕の中に押し込めて、「俺の方が好きだよ」と唇を奪ったら。ちゃんはどんな顔をするのだろうか。俺の腕の中で動けなくなって、その間だけでも俺のものになって、森山先輩は俺のことを殴るのだろうか。それとも冷静になって、俺のことを諭すのだろうか。
「羨ましいっスよ、ホント」
どうであれ、そうしてちゃんが俺のものになるのなら、もうどうだっていいと思った。この場にいる全員に絶望が降りかかってもいいと思った。
「なんで、黄瀬くんモテるのに」
「そうだよ黄瀬、お前なら選び放題じゃないか」
その選び放題の中で選べない子がいるとしたら。例えばそれがあなたの彼女で、俺がそれを欲しがっているとしたら。先輩は諦めて彼女を差し出してくれるというのか。俺が好きだと言えば、彼女は俺の背中に腕を回してくれるのか。ありえないだろうそんなこと。分かりきったことを問うんじゃない。
純粋なくらいに眩しい目が俺を捉える。そうやって二人に微笑みかけられるたび、俺の心の黒い染みが広がることを彼らは知らない。もし分かっていて微笑んでいるのだとすれば、彼らはどこまで残酷な人間なのだろう。「どうして俺だけ」と、掠れた自分の声が積もり積もって彼女に降りかかればいいのに。
「じゃあ、俺のこと好きになってよ」
込み上げた言葉を飲み込んで、代わりに「誰か好きになってくれないっスかね」とからから笑う。天使と悪魔、俺はどちらに傾けばいいのだろうか。そう考えて、俺は考えることをやめた。
だってどちらに傾いても、結局俺は悪魔になってしまうような気がしたからだ。
by 悪魔とワルツを