thinking time

 めずらしく俊が自分から「部活終わるの、待っててくれない?」とホームルーム終わりに私のところへやってきたので、びっくりした反動でこくりと頷いたのはついさっきのことだ。普段通り帰るつもりでマフラーも手袋も身に着けていた。だからそのまま少し呆けて体育館に向かい、監督に早変わったリコに隅で待っているように言われた。ボールが飛んできたり、もしくは男の図体が飛んできてもいいのならという条件でリコがへらりと笑った結果だ。
 舞台に上がるほどのことではないと、そこに繋がる簡易的な階段のなるべく下段に腰かける。マフラーも手袋も外して部員の顔を左から右へと見つめていると、ふと目が合った日向くんが見るからに「うえ!?」という顔をして、隣に立つ俊の頭を真後ろから平手で打ちつけていた。

「いって!なにその無言の攻撃!?」
「るっせ」
「ええっ!?」
「ほらさっさとアップして!つっかえてるから」

 理不尽、といってもまあ間違いではない形で打撃をうけた俊は、リコに急かされるがまま足を踏み出していた。体育館の中を数周走り、柔軟や筋トレをしている間もちらちらと日向くんを見ては交わらない視線に首を傾げたりしている。
 俊は鋭いように見えて、変なところで鈍い。だから日向くんが“恋愛”に関することで俊に八つ当たってることには間違いなく気付かないだろう。それもそれで可哀想だなと、私からは溜め息しかあげられない事実に日向くんには同情してあげたくなった。
 そんなことを思いながらぼーっと動き回る人たちを見つめている。気付けばもうゼッケンを着用しているメンバーもいて、アップを終えてほんのり頬を赤く染める俊もまた、堂々とした足取りでこちらに向かってきていた。視線の低い私と目を合わせることなく、何故か自分のジャージの上着を差し出して向かい合っている。

「あのさ。これ持っててくんないかな」
「いいけど…なんで、わざわざ」

 ぶっきらぼうとまではいかないが、どちらかというと普段の彼にはあまり見ない強制的な形で、私はまたよく分からない頭のまま手を伸ばしているのだった。

「ん。ここ冷えるからさ、床冷たいし足冷えたら体に良くないだろ」

 ようやくこちらを見た俊はへらっと自然に笑って、鼻先を少し掻いた。視線を自分の足元に向ける。指先だけがセーターの袖から出る手元はずいぶん温かそうだけれど、それとは対照にむき出す足が寒気を誘う。スカートが白いからなおさらだ。私は受け取ったジャージを抱えながら「ありがと、」と感心したように呟いた。実は少し、びっくりしている。

「膝とかにかけときな。あったかいし一石二鳥」
「俊がそういうなら、そうさせてもらう」

 驚いた。私でさえ言われるまで足がこんなに冷えているなんて気付かなかったのに。その配慮を日向くんにも向けてあげてほしいと思いながらブランケットさながらにジャージを広げた。しばらく俊が手にしていたせいか、ほんのり温かい気がする。それは自分で抱えていたせいかもしれないけれど、なんとなく、俊の温かさだといいなと思った。

「うん、あったかい」

 足を覆うようにジャージをかけた私を見て、安心したように頷いた俊は「よし。じゃあ俺行くね」と手を上げてコートに戻って行った。今日は鬼のような特訓メニューをするのだと弱音を吐く火神くんの声が響き渡る。私はナイロンの質感をぎゅっと握りしめて、折り曲がった膝に額をくっつけながら大きく息を吸った。丸く、小さくなって、何十もの音が混じる体育館の雑音から、俊の声だけを探した。

「これ、俊の家の匂いがする」



* * *


 バスケ部のロッカールームとは、確認せずとも男臭いものだと思っていた。それで間違いないと思っていたから頭の中で覚悟のようなものは出来ていたし、どんな匂いでも驚かない自信はあった。なので今日初めて吸い込んだロッカールームの空気に眉間に力を入れている自分は予想外で、まさかこうも驚かされるとはと、入り口で立ち尽くす私に俊は気付かない。大袈裟に言うと革命。生まれてこのかた、ロッカールームイコール鼻をつく臭いという方程式を信じていたが、それは今をもって崩壊した。いろんな制汗剤の匂いが混じっているとはいえ、何だろうか、びっくりするほどさわやかな香りだ。

「やっぱ、男の子も気にするんだね、匂いとか」
「匂い?あー汗拭きシートとか?」
「とか。あとこのひっそりとたたずむ芳香剤とか」
「これは監督あたりが見兼ねておいたんだろ。それか意外にコガあたり」
「へえ」

 ちなみに私は先ほど手渡された俊のジャージを羽織っており、いわゆる彼ジャーというものだと調子に乗っていたりする。隠すことなく着替える俊を横目に、布が擦れる音を聞きながら古臭い椅子に腰掛けた。
 どうしてロッカールームに私たちだけなのかというと、変に気を利かせたメンバー全員が揃いに揃って逃げるように帰ってしまったからだ。あの最後にピース付きの笑顔で消えて行ったリコの顔が忘れられない。日向くんとかは首根っこを掴まれていて、やっぱり不憫で仕方なかった。申し訳ないことをしたと思う。

「なあ
「ん?」

 学ランのチャックをしっかり一番上まで上げて、振り向いた俊はいつになく真剣な顔をしていた。本当に彼女の私が思わずドキッとしてしまうほど、真剣な顔だった。立ったままの俊が座ったままの私を見つめる。こんな時にも肩にかけられたジャージからはいい匂いがして、このタイミングはずるすぎると思った。

「ロッカーにはいろっかー」
「……」
「はいろっかー」
「…うんじゃあ閉めてあげるよ、私が、外側から」
「うそうそうそ!ちょっ、ごめんって!」

 立ち上がると同時に俊の手首を掴んだ私がロッカーまで誘導すると、俊はようやくじたばたしながら「うそだよ、うそ!」を連呼した。ロッカーに入ろっかーって、そんなお誘いを受けたのは生まれて初めてだ。というより俊以外にいないだろう普通。これまた変なダジャレを思いついたものだと、ロッカーに背を向けて振り返る。すると俊は私の肩にかけてある自分のジャージを脱がせて、それを無造作に地面へと滑り落とした。
 「え、なにを、」と私が足元に視線を落とした瞬間、あろうことか私の左肩は俊の右手の中で、それはいとも簡単に私の背中へと回されていた。抱きしめられる。磁石のように引き合い、間合いを詰める自分と俊の体。一番最初に密着するのは少し膨らみを帯びた私の胸で、当たったと思った頃には自分の頬が俊の首元に押し付けられていた。まだ冷たい俊の制服。でもそれも、すぐに自分の体温で温かくなってしまった。

「……寒い日に聞く俊のダジャレは、余計さむいね」
「はは、冬だからねー」

 俊のジャージを羽織っているだけでも、どこか俊に抱きしめられているような気はしていた。でもそれはやはり違っていて、匂いだけでは俊自身を補えない。この腕に込める力強さも、包み込まれるような体温も、息をするたび上下する胸も、降りかかってくるような優しい声も、高鳴ってうるさい自分自身の鼓動でさえ。俊がいなければ感じられないものなのだと、こんなに冷え切ったロッカールームで抱きしめられて初めて、私は実感することが出来たのだ。冬とはなんて罪深い季節なのだろう。

「でも体温とか、分かるから冬は好き」
「そうだな」

 そっと私も垂れ下げたままだった腕を上げてみる。戸惑いを引き連れたそれを俊の脇の下から通し、そのまま両の手のひらを俊の背中に沿うようにくっつけた。少し顔を背けた俊が口を開く。私はまだ首元に顔を押し付けられたままなので顔までは見えないけれど、声の聞こえ方からきっとそうなんだろうと思った。

「…さっきさ、実はちょっと、パンツ見えそうだったんだ」

 さっきとは、私が体育館の舞台に上がる階段に腰かけていた時のことだと俊は言った。つまり俊がジャージを持ってくる前、ということだろうか。それにしても突拍子もない発言に私は顔を上げてしまう。案の定、顔を背けていた俊は薄らとピンクに染まる頬を隠せるはずもなく、ただ気まずそうに舌を下唇に滑らせていた。
 思ったよりも、近い。今度はこちらまで頬の色を変えてしまいそうだったので、急いで俯いたけれど、そうか、そうだったのか。だからあの時、俊は私と目を合わそうとしないで、ぶっきらぼうに自分のジャージを。

「これ、役にたってよかった」

 そう言って俊は私を解放し、その手で拾ったジャージをはたいてから私の肩にふんわりとかける。「ありがとう、俊」とその袖口をぎゅっと握りしめると、やっぱりそこからは柔らかな俊の匂いがした。私はこの匂いが、この匂いで私を包み込んでくれる人が、大好きだと心から思った瞬間だった。



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