慈雨と透徹

 昨晩からずっと花言葉大全集に目を通していた。存外にも内容が奥深く、様々な角度から楽しみを見出してしまっていた僕は、そっと最後のページをめくってため息をついた。
 気付かぬうちに没頭していたせいか、どうやら世間は午前8時を迎えたらしい。つけっぱなしのスタンドライトだけが明かりを灯し、ブラインドの隙間から垣間見える微妙な明るさが部屋をぼんやりと滲ませている。
 パタ、と何時間と目を通していた分厚い本の表紙を合わせあう。深く腰掛ける反動で椅子を半回転させて窓に目をやると、どうやら外は雨のようだった。雨音が聞こえるほどの雨量ではなく、小雨が申し訳程度に身を投げていた。漫画家の自分にとっては特に問題があるわけでもない雨天。不満を上げるとしたら紙が多少湿気ることだろうか。いまいち気分が優れないのはこのせいか、などと思うことさえどうでもいいようにフンと鼻を鳴らし、左肩の柔らかいところを指先でぐっと指圧する。
「そろそろ起きたらどうだ」
 離れたソファーで横たわるミノムシのような塊に投げかける。声に反応してもぞもぞっと動きを見せるそれは、喘ぎ声のようなものを上げながら寝返りをうった。
 こいつは昨夜から僕の家のソファーを占領しているという女の人間である。
 僕の記憶では、彼女は月も見えないどんよりとした夜空を睨みつけた後、やり場のない思いを飲み込めるはずもなく半ばやけくそになっていた。そして行き倒れのようにソファーに身を投げたのを覚えている。ミノムシを形成している毛布は深夜、新しいコーヒーを淹れるついでに僕がほんの情けでかけたものだ。
「………おはよう。雨…まだ降ってるの…?」
「ああ。だいぶマシだけどな」
 寝起きの女というのはどうしてこうも色気がないのだろう。それこそ漫画の世界では、ヒロインの寝起きなどこれ見よがしにサービスショットだというのに。
 は雑に目の周りを服の袖で拭いながら「次いつリベンジするの、山」と呟いた。
「頃合いを見て行くよ。それほど急ぎでもない」
 というのも、実は昨晩。取材の為に車を走らせ山の上で天体観測を行う予定だった。が、この悪天候だった。厚い雲がかかり、どうにも星なんて見える気配がなかったので延期にしたのだ。すると車を走らせる気満々だったの方が何故か肩を落とし、そのままふてくされるようにソファーで夢の中へと逃避してしまった有様だ。
 僕のひと声で取材の運転手を名乗り出、意気揚々とその準備を始めるのフットワークの軽さにはため息が出るし、どこまでもめでたい。しかもそれをデートなどと聞こえだけはいいような呼び方で連呼してくる厚かましさだ。
「思い出したらむっとしてきた。露伴は悔しくないの?」
「何が」
「昨日のこと。このためだけに天体望遠鏡まで買ったくせに」
「だから言っただろ。天体観測なんか天候の変化をもろに受けるぜ」
「あっそ、じゃあ悔しくないのね。ちっとも、これっぽっちも」
「ああ」
 目の前の女は息継ぎなしでこう言い切る。
「やっぱり変わってる、たかが一度きりのそれも取材の為だけにバカ高い天体望遠鏡セット一式まで買って、そのくせ当日雨降って中止になってもまったく何も思わず天気のことは仕方ないなんて、やっぱり変わってる」
 分かりきったことだ。何を今更と馬鹿馬鹿しさを他所に鼻を鳴らす。
 そんな僕に少し呆れたのだろうか、もぼさぼさの髪を手ぐしで整えながら、両足を放り投げるようにしてソファーに掛け直した。それから窓の向こうを睨みつけながらもう一度何かぶつぶつと文句を言い、すっくと立ち上がってどこかへ行ってしまった。
 出来ないのならば、予定の順序を変えればいいだけのものを。天体観測をテーマにした話はまた今度と集めた資料をバインダーに閉じ込める。外の世界からは雨音、遠くから水道水が排水溝に流れ込む音が響く。僕は再来月号を飾る巻頭ページを描き始めつつ、次回の番外編は何を題材にしようかと頭を掻いた。歯を磨き終えたが定位置に戻る。そして相も変わらず視線を開け放ったブラインドの外へ向け、何か言いたげに大きな欠伸をぶちかました。
 午前8時半。雨はまだ止みそうにない。
「はーあ……はーあーあ……」
「……」
「はー……露伴、晴れたら買い物に行きたい」
「……はあ」
「あ、溜め息」
「君のそのはーあー言うやつ。不幸になるぞ。これは忠告だ」
 ペンを握る手が進まず、うっかりだらしのない女の行動を目で追ってしまっていた。くるりと椅子を回転させる。しっかりとデスクと向かい合い、を視界からシャットアウトした。気配がするからおそらく、は立ち上がり僕の右斜め後ろに立っているのだろう。そして描きかけの下書きを見下ろしている。
「買い物はいいや。その代わり露伴、私の漫画描いてよ」
「断る」
「なんで」
 この女はずうずうしいにも程がある。僕がイライラしているにも関わらず、それをあっという間に呆れへとすり替えてしまう。よくもまあ、そんな発言をポンポンとポップコーンのように吐き出してくれた上に、くだらないのをおもしろくするのが漫画家じゃないと妙に威張れるのだろうか。
「聞くからにくだらないからだよ」
 どうすればそのような考えに辿り着くのか。まったく、この女の読み取り不可の思考が気になる。
「じゃあ例えば。設定は?」
「えーっとね、まず私が女スパイなのは言うまでもないでしょ。で、次の任務は超売れっ子漫画家・岸辺露伴の新作ネームなんだけど、なんとそのバカ売れ漫画を描いてたのは実はゴーストライターだったのよ」
「君、僕に喧嘩売ってるんだろ」
 付き合って損したなあというのが第一に思ったことだった。振り向くのも嫌でニヤニヤしているであろうを余所に描きかけの巻頭ページを片付ける。今回の巻頭はヒロインの日常の1コマを切り取って描こうと思っていた。それが可愛げのない彼女の寝起きを見たからという理由は死んでも伏せておきたい。
 本日何度目かの溜め息が飛び出し、勝手にペン先をいじくるから仕事道具を取り上げる。雨はまだやまない。手持無沙汰になり少し唇を尖らせるは、おもしろくなさそうな顔をしつつも笑みを浮かべているようだった。
「今日はおうちデートで手を打つかぁ」
「君って、本当に頭のおめでたいやつだな」
 一周回って羨ましくなってくるぜ、と笑いが込み上げる。はスタスタとスリッパの音を立てながら、ブラインドの隙間に指を入れて外をうかがう。雨音が妙に哀愁を誘い、彼女の後ろ姿が儚く尊いものに見えるのが唯一雨のメリットだろうか。が雨降りの童謡を口ずさむ。それが心地よくて、僕は頬杖をついてそれを眺めた。彼女には雨が似合う。
「雨、やまなかったら。今日は僕が相手をしてやるよ」
 そうしてさっき彼女が口走った言葉を思い浮かべる。
 僕が描く、彼女の話。雨の時間だけ文句の増えるくだらない女の話。舞台は連載中の主人公が住む隣町で、雨の降っている間だけ、文句を言うたび無意識に厄介ごとを招き入れるというのはどうだろうか。そこまで考えて、それもそれほど悪くはないんじゃあないかと、花言葉大全集の紫陽花のページを開いては桃色の付箋を貼り付けた。
 主人公は雨降りの世界を背に目の前で満面の笑みを浮かべるこの女だ。僕の手で、最高に綺麗に描いてやろう。

by 徒野

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