海を伝う伝言

 28歳にもなってこれはないだろうと思う。左肩にかけたバッグの紐をきつく握り、右手にはカメユーで買ったネギやら大根やらが飛び出るビニール袋を手のひらに食い込ませ、体を歩道の端にへばりつけるようにして歩いている。左側には外壁、右側には見慣れない制服の男子高校生が3人ほどつけていて、まんまと私は囲まれた状態で立往生していた。
 なんだってこんなことになったのだ。ひと回りも年下の子たちだ。大人らしく冷たくあしらってしまえればいいものを、それすらも出来ずに右の二の腕を揺さぶられている。ガサガサとスーパーの袋が音を立て、はみ出たネギの先が少し折れる。あまりにも無力な自分が情けなくて、鍋の材料なんて今度にしてまっすぐ家に帰ればよかったと激しい後悔に襲われていた。
「おねーさんお仕事帰りですかー?」
「芸能人の誰かに似てるって言われませんー?」
「ねー聞いてるー?俺らとあそびませんかー?」
 一歩踏み出せば退路を断たれ、一歩下がれば距離を詰めてくる。体当たりしようかとも思ったが、執拗に追いかけられたり言いがかりをつけられるのは勘弁だ。強行突破は最後の手段に置いておきたい。なるべく事を荒げずこの場を立ち去ろうと周囲に人はいないか黒目をギョロギョロと動かせたが、数奇なことに帰宅時間にも関わらずこの路地には私たち4人しかいない。
 本当にどうかしている。もう一度言いたい。これはないだろう。
「ちょっと、急いでるのでごめんなさい」
「あーだめだめ」
「離してってば」
「まあまあ、そんな怖い顔しないで」
 掴まれた二の腕にぐっと力が込められる。まったく、こんなクソガキ共に絡まれるなんて最っ悪!と思わず声に出してしまいそうになった時だ。
 「おい、」とこの薄暗い路地に響き渡る声がぴたりと男子高校生の言葉を止めた。見るとそこには暗闇に象られた図体のでかい人間が、徐々に浮かび上がるように近付いてくる。
 ヒーローだと思った。救世主だと思った。神様は私を見捨てなかったのだと、その正義の味方が私の二の腕から男子高校生を剥がし捨てるのをアクション映画を見ているような気持ちで見つめていた。男子高校生がその男性に殴りかかったように見えた。その後どうなったのかは分からない。彼が耳元で何かを囁いて、それから男子高校生たちは声も上げず来た道を走って逃げて行った。
「ありがとうございます。あの……大丈夫、ですか?」
「俺の心配はしなくていいぜ」
 ふと、その帽子の下の瞳と視線がぶつかる。今この状況が少女漫画だとしたら、私の周りにぶわっと風が吹き抜けたに違いない。まるで時が止まったように、言葉を吐き出すどころか唇を動かすことすらままならない。あまりに私が黙っているものだから、痺れを切らせた彼が「やれやれ、忘れたか?」と声を出してしまったほどだ。
 忘れるわけがない。ただ驚いたのだ。だって、私の記憶が正しければ前にもこんなことが。
「空条くん…?」
「よお。昔と変わらねえからすぐに思い出せたぜ」
 控えめに、それでも彼にとっては十分すぎるほどの笑みで。私が知っている頃よりももっと輪郭をすっきりと見せて立つ空条くんは、制服を纏っていた頃と同じように帽子の向きを正した。


 あの目の輝きを見た時、走馬灯のように思い出した。セーラー服を纏い、生まれ育った町を歩いている時も私は、今のように空条くんを見ていたのだ。呆れるほどに同じことを繰り返しても、最後には彼がすべてを終わらせる。姿を見せて、一言吐き捨て、やれやれと呟く。そんな空条くんを、私は何十と見ていた。
 簡単に引っかけやすそうに見えるのだと当時の友達は言った。鼻につく態度をしていたわけでもなく、ガンを飛ばすなんてこともしていない。それなのにお決まりのように不良に囲まれるのは、私に問題があったらしい。単に馬鹿な女に見えるということだ。
 とはいえ、私自身スカートを短くして下着を見せるだとか、髪を明るく染めて派手に装うだとか、そのようなことは一切していない。ただ当てつけのイメージ。そんなイメージだけで私は他校の不良にまで声をかけられる厄介事を招いていたのだ。
「それでも絶対っていうほど空条くんが来てくれるから。心の何処かで余裕さえあったよ」
「最後なんて適当にあしらいながら俺を探していたしな」
「あれ、バレてた」
 最初は不良もしつこく付きまとってきた。けれど回数を重ねるたびに、“あいつに関わると空条が出てくる”と噂が広まったのだ。“あいつと空条は繋がりがある”、“あいつが空条を雇っている”、“あいつと空条はデキている”。そうやって噂ばかりが独り歩きし、ついには不良たちが私を恐れるという謎のヒエラルキーに守られていたのだ。
 その噂を私は知っている。もちろん空条くんだって知っていた。けれど不満を言うこともなく堂々と歩いてくれていたのは、紛れもない空条くんの優しさだと私は思っている。否定しないのかと尋ねたこともあった。けれど本人は面倒だからと鼻を掻いて、私もそれならいいやとそれ以上は聞かなかった。
 改造した制服をはためかせる空条くんを忘れられない。黙ったまま少し微笑む彼が特別で、私だけの宝物にしようと大事にしていた。大袈裟だと笑うかもしれないが、私にとっては間違いなくヒーローだったのだ。
 今もその面影を残しながら空条くんが料理を口に運ぶ。咀嚼し、ちらと箸を止める私の顔を見た。
「…食わねえのか?」
「ううん。なんか、感傷に浸ってた」
「そうか」
「空条くんとこうしてごはん食べるとか、あの頃の私が知ったら驚くだろうなあって」
「昔とさほど変わりあるか?」
「だって、28だよ?10年以上も経ってるのに、またこうやって笑って話せるとか最高だって」
 サーモンのカルパッチョに箸を伸ばして笑う。空条くんの叔父さんが教えてくれたというお店で料理を味わいながら、私たちは向かい合って笑っていた。
 杜王町は私の地元ではない。けれどこんなに平和な町で、また空条くんと再会出来たのは本当に嬉しいことだと思う。また私の家で作り損なったお鍋でも、とも思ったが、明後日には杜王町を出ると彼は言う。この町どころか、日本を発つというのだから私は身を乗り出さざるを得なかった。
 「研究で、」と話し始める空条くんに隙はない。とても誇らしいことなのに、どこか別人のような、遠く、もう昔には戻れないんだという勝手な切なさが私の中で渦巻いていた。
は、変わらないな」
「悲しいくらいに昔と一緒。空条くんと大違い」
 何も変わっていない。昔の彼を懐かしく思わないほどに。けれどこれほどに私だけが距離を感じてしまうのはきっと。そんな何も変わらない彼から、私の知らない言葉が飛び出すからなのだろう。世界の海、自分が乗った船の話をする空条くんを見て思う。海洋学者なんて難しいことはよく分からないけれど、ぼんやり纏う煙草の匂いを私は知っている。それが何年も経った今でさえ、空条くんなら許せると思うことすら分かってしまうのだ。
「…当たり前みたいに。私のこと、助けてくれてありがとう」
「なんだ、急にかしこまって。慣れないぜ」
「そうだね」
 変わったことと言えば、私たちがあの頃よりもすいぶん年をとってしまったことと、空条くんに奥さんと6歳になる娘さんがいることだろう。
 仕事中心の生活でなかなか顔を合わせることがないとはいえ、自分のため、家族のために日々奮闘していると彼は言う。それを聞いた時、私の中で何か吹っ切れたものがあったのかもしれない。自然と、嫌味もなく。私にしてくれていたことと変わらず、空条くんはそういう人だったなと、切なさと尊敬が入り混じって笑みが浮かんだ。
 今日会えたのはあの日の延長か偶然か。どちらにせよ、もうあの頃と状況は変わっているのだと気付いていた。
「またこっちに来る用事が出来たらさ、ごはんでも行こうよ」
「ああ、必ず声をかける」
 空条くんは自然に口角を上げて、私のためにデザートを頼もうと店員を呼んだ。難しい顔をしてメニューを指差しながら、彼なりに女性が好きそうなデザートを選んでくれていた。
「初恋、だったんだけどなあ…」
 少し緑がかった瞳が好きだった。不器用にかけてくれる心配の言葉だって。初恋は叶わないというけれど、だとすればそれは正解だ。10年も時を経て実感する。もう二度と叶うことのない、最初で最後の初恋だった。今になって認めるのは少しずるいかもしれない。けれどあの時、偶然の出来事から私を気にかけてくれていた空条くんに、少しでも特別な感情があったのだとすれば。私はそれだけで満足だ。
 透き通る海のような瞳を見つめる。あと何十分後かには見送ってしまわないといけないその姿に、私は一生分の想いを馳せた。

by 悪魔とワルツを

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