アンジェリエデーモニ

 どうも、自分の管轄内で起こっていることに首を突っ込んでしまう瞬間がある。それはもちろん恫喝であったり横領であったり、目にとまってしまった暴力であってもだ。きっとここで求められるのは“冷静な見逃し”だろう。自分の担当であるわけでもない。見て見ぬ振りをしたところで責められるわけでもない。なのにそういったことに足を踏み込んでしまった時、ああ自分は求められないお人好しなのだと、驚くほど単純に自分を分析していたりもした。
 けれど今さっきの出来事は少し違っていたと言い訳したい。なぜなら無抵抗の女を横暴な男が殴りつけるのは、うっかり目撃してしまったこちらとしても胸糞が悪いからだ。待ち合わせをした友達に歩み寄るのと変わらず、自然な歩幅で近付いた僕はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま足を蹴り上げていた。異常なほどに持ち上げられた体ごと、路地裏のドラム缶にめり込む大柄の男。座り込んだ女はひいっと声とはいえない悲鳴を上げていたけれど、僕は男の息があることを確認すると、動かない体に目もくれずくるりと踵を返した。
「……あの、」
 女は何も言わなかった。恐怖に帯びたさっきの瞳を見ると、つまるところ僕もあの男と同じようなものだと思っているのだろう。
「彼の右胸ポケット。あれはあなたのもの、ですよね」
 雑にねじ込まれた札束が詰まっていた。一部湿気ているあたり、ついさっきまで誰かが握りしめていたのだろう。取り返すなら今の内だ。僕はそう言う代わりに一本流れ落ちた前髪を整えると、そのまま路地裏を後にした。それから女が金を取り戻したのか、そのまま立ち去ったのか、僕には分からない。
 しかし一つ分かることは、彼女が自分のよく行く店と同じ制服をまとっていたことだった。



 よくよく思い返すと、見たことのある顔だなあと思った。
 慣れ親しんだコーヒーを啜ることによって思い出したその制服は、紛れもなく今いる店のものだ。そしてあの時の女。何度も自分の前にコーヒーカップを運んできた女である。あいにく今は不在のようだが、それはそれで助かったとも思う。あの日からそんなに経っていないので、多分自分のこの成りではすぐに気付いてしまうはずだからだ。この店は結構好きだ。せっかく気に入った場所を手放すのは惜しい。
 午後18時。集合がかかる。
 ナランチャの世話もあるし、早めに出向こうと空になったコーヒーカップをソーサーに置いた時だ。店員の交代の時間なのか、入れ替わった店員が僕を追い越した瞬間、微かに鼻をかすめた香りに視線が左下を向く。
 人は恐怖に陥った時、親しい者でさえも疑うようなおどろおどろしい表情をするものだ。衰えさえも感じるような、別人のような表情を。あの日の女もそうだった。そんな顔を見慣れたといっては物騒だが、ごく自然に受け入れた僕は人間の変化を身を以て体験したと言っても過言ではない。振り返った彼女が僕の顔を見つめている。驚くような、敬うような眼差しで、まばたきもせずにずっと立ち尽くしていた。
「…あ、あの……」
「……」
「……先日は、本当に、ありがとうございました…」
 お礼が言いたくて、ずっと心残りで、でも、言えてよかった。
 そう言った女の頬が赤らんでいるのは、綺麗に発色したチークのせいだ。深々と頭を下げた女はシルバーのトレイを両手に抱えたまま、あの日の僕さながらくるりと踵を返し、早々とカウンターの裏へ消えて行ってしまった。彼女にとって、僕はどういう存在なのだろう。第一印象があれであれば、これは当たり前の行動だ。関わり合いになるのはよした方がいい。自分が相手の立場ならそう思って仕方ない。
 けれど何故だろう。あのチークの色が忘れられないのだ。ふわりと淡いピンクの花びらが溶け込んだようなあの頬が、僕はすごく美しいものだと思った。それが赤く腫れた痣を隠しているものだとしても、とても美しいものだと僕は思った。


 誰かに惹かれるというのは、多分こんな感じなんだろうなあとぼんやり感じていた。それはその人の顔が頭から離れなかったりだとか、話をしたいと思うことだったりだとか、そういう些細な欲求なんだろう。自分がメインストリートを歩き回っているようなただの男であれば、きっとこれは恋というやつなんだと舞い上がっていたはずだ。けれどそういうわけにはいかない。僕の中には本能的に結果を求める部分と、自分を守ろうとする保護的な部分が常に相対していて、一般人こそ瞬間に出る決断が簡単にできない時がある。
 残念なことに今の問題がこれで、皆が簡単だと笑うものに限ってむずかしい。
「24×3は~…3は~…ええっと……42、か!?」
「……」
「なあフーゴ!42だ!答えは42!聞いてんのかァ?」
「聞いてますよ。やり直し」
「ちぇっ」
 単純に彼女のことをもっと知りたいと思う自分と、別に知りたくないと捻くれる自分。何が好きで、何の話をして、家では何をするのを好むか気になる反面、そんなことを知ってどうする、知ることによって僕は今の僕ではない何かになれるというのか?と責めたてる。終わりのないやり取りに目を向けるのも嫌になるくらい、僕の思考はそんなことばかりを繰り返している。
 そうしている間にまた一日、一日と時は過ぎていく。薄れていけばいいものを、いつまでも大切なものを引きずるように、気付けば大事に抱えている感情に目を背けることが出来ない。こうなることが運命というならば、だったら未来はどう繋がっていくのだろう。僕が何もしなくても、運命は紡がれていくのだろうか。そしてまたちらつく彼女の横顔に、とうとう僕は考えるのをやめたくなった。
「ミスタ。君いつか、堅気の女と付き合ってたことがあったよな?」
 指を組みながらぼうっとテーブルの真ん中に置かれたピッツァに視線を預ける。しばらくうんうん唸っているだろうナランチャは放っている僕に、あまりいいとは言えない顔で「ああ、あったぜ。それが?」とミスタは拳銃の手入れをしながら答えた。おそらく次に僕が言いたいことを察したのだろう。こちらが「それで、」と言うより先に、ガチャンと撃鉄を起こしたミスタは鋭い目つきで僕の目を捉えた。
「お前が何をしようとしてんのかなんて興味ねえが、あまりおすすめはできないな」


 火がついたままの煙草が道端に転がっている光景すら苛立たしい。吸殻の火を消すことも出来ないやつが煙草を吸うなと舌打ちをお見舞いしながら、靴底でそれを捻り潰す。空もどんよりと厚い雲が覆い、夜になれば降り出しそうだ。無意識に立ち寄った馴染みのある店にも入る気にはなれず、今も心が赴くままに足を踏み出している。
 あれから何度か例の店に足を運んだ。それはあの店が僕の日常になっていることと、コーヒーが美味いという理由に変わりはない。けれどそこで何をしていたのかと思い返すと、それといって記憶にない。それどころかコーヒーを飲んで落ち着いたという記憶さえないのだ。僕が客ではなく“フーゴ”として女と口を聞いたのもあの時の礼っきりだ。彼女は時折、僕が入店したと同時に顔を見せることはあるけれど、積極的に僕の相手をするわけでもなく、僕も彼女に気をかけるわけでもなかった。ただその場限りの店員と客の間柄で、変わったことなど何一つない。一度何も言わずスコーンをおまけしてくれたことがあったが、本当にそれだけだった。
「よければどうぞ。おすすめなので」
「ああ、ありがとう」
 たかが一言。されど一言。僕と彼女の関係なんて、その辺で道を譲り合う老人と若者よりも薄いものだったのだ。
 そして気付く。僕は彼女の名前すら知らない。年齢も、住んでいる場所も、あの店が仕事なのかアルバイトなのか、それすらも知らなかった。唯一知っているのはコーヒーを差し出す“店員”を張り付けた顔と、酷くやつれた目で恐ろしいものを見るような顔。そして何らかの金銭問題に追われているということだけだ。そういえばあれから厄介ごとに巻き込まれたりはしていないだろうか。
 あの時の路地裏近くを通りかかりながらそんなことを考えていると、ポツリ、と一粒地面の色が濃くなった。
「早いな。もう降ってきやがった」
 一人呟く。本格的に降られては面倒だと両手をズボンのポケットに突っ込み、目的地へ急ぐ。上着の色が変わってしまう前に皆が集まる店へ。徐々に開かれていく傘の群れを横目に歩幅を大きく広げていたのだが、ふと目に留まった傘の花が僕の足を止めた。
 あの女が、あの日の頬のような、淡いピンクの傘を広げている。
 無意識に手が伸びていた。いや、伸ばしかけていたが正しい。それを抑えつける自分がいて、どうかそのまま振り返らず僕の前から去ってくれと願っている。関わり合いになるのはよした方がいい。そう判断したのは僕自身だ。少し考えると分かる話で、例えば僕が死んだとしてその後はどうだろうか。そんな結果になりうることも覚悟の上でこの立場にいるのだから、その結果に悔いはないし、周りの理解もあるだろう。けれどもし彼女と関係をもったとして、お互いを必要とするようになったとすれば。簡単に死という結果を受け入れられるだろうか。死ぬことに躊躇するんじゃあないか、死んだ後のことを考えてしまうんじゃあないか、そんなことが漠然と浮かんだ。
 遠目に揺れる傘が記憶をくすぐるようで、まるでそれは警告のようにミスタの言葉が頭の中でリフレインする。
「なんつーか、そもそもの問題なんだよ。俺とアイツは違う。根本的なことだ。だから俺が近づけば近づくほど、アイツが汚れちまう気がするんだよ。俺自身が惨めに見えるとか、そんなのはクソみてーなことだ。今更気にすることでもねえ。でもよ、自分にとって一番我慢ならねーことは、俺のせいでアイツが今のままじゃいられなくなるんじゃねーかってことだ。迂闊に付き合うなんか、できることじゃねーぜ」
 自分と彼女の差を目の当たりにするのはどうてことはない。そんなこと、この世界に足を突っ込んだ時から分かりきっているのだから、とうの昔に吹っ切れている。
 けれど、そうか。僕が近づくことによって、彼女が彼女でなくなってしまう、なんて。僕のエゴで彼女が崩れ落ちて行くなんて。きっともっと頭がぶっ飛んでいたらそんな彼女も見てみたいなんて思うのかもしれないが、僕はまだまだ正常らしい。これでも。だから彼女がぐちゃぐちゃに涙を流して、あるいは見たこともない冷酷な笑顔を見せて、僕を見るのだけは耐えられないと思った。最悪、それが血の海に浸り、マリオネットのように成り果てた彼女なんてまっぴらだ。耐えられない。
「Buona fortuna」
 最後にあの淡いピンクを目に焼き付けて、異なる道を歩きながら。僕は柄にもなく他人の幸せを願ってみる。
 こんな曇天に叶うはずなどないけれど、せめて彼女に平穏な日々が訪れますようにと。一度くらい祈っても神様は許してくれるだろうから、一度くらい僕の願いも受け入れてはくれないだろうか。
 雨を吸った上着がずっしりと重い。それがやけに現実味を帯びていて、僕の思考はすっかり元の世界へと引き戻された。

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