静謐とメロウ

 ボールルームダンス懇親会なんて、本当に名前だけの催し事だったと思う。そこそこの実力者が集められ、偉い人の話を聞き、料理を食べ、あとはお遊戯程度で踊るような、そんなお遊びのような会だった。スタジオごとに何組か輩出され、集まってみれば見たことのある顔ばかり。何も今さら場を設けて話すこともなく、ただいつも通りの大会前のような雰囲気だった。
「ちょっと気疲れした。いろんな人来てたし」
「ああ。早く帰って寝たい」
 窓の外は点々と住宅の電気が灯り、人も少ない。終電間際の電車に揺られながら、私と清春は大きめのバッグを抱えて肩を寄せていた。確保した席が男女二人が座るには少し狭すぎたのだ。
 電車がカーブに差し掛かる。反動で体が右に寄り、壁と私に挟まれた清春が潰れてしまわないよう踏ん張るのに必死だった。
「話全然変わるけど」
「ん」
「たまに、私がパートナー以外の人と踊ったりとか、してるとこ見たら嫉妬しちゃうこと、ない?」
「は?」
 対向の線路を快速電車がすれ違い、風圧で背後の窓ガラスがガタンと音を立てる。電車が過ぎ去ればまた静かな車内に戻り、つり革を持つ男性がうつらうつらと船を漕いでいた。
 膝の上に置いたバッグを抱え直す。清春はリュックの紐を握ったまま、そのアイブロウで描いたようなくっきりとした眉を思い切り寄せていた。
「私はある。清春が雫以外の人と練習したりとか、そういうの見てたら妬いちゃうこと、普通にある」
「なっ…んだよ…それ」
「言わないけどさ。でもついつい見ちゃう」
 そして今も、清春の反応をうかがいながらちらちらと視線を送ってしまう。眠そうに垂れていた瞼は一瞬にしてくっきりとした二重を作り出し、まるで二度寝から目覚め、遅刻に気付いた学生を連想させた。
「清春はない?私が多々良くんと楽しそうにステップ踏んだりとか、釘宮さんにリードされて汗かいて、時には仙石さんと、」
「あるけど」
 そしてすっと前を向く。言葉が出ずに黙って狼狽える私に、清春は知らん顔でよく見えもしない景色に視線を揺らめかせている。口では淡々と言い放ったくせに、よく見れば耳が少し桃色になっていた。
 私はすぐに焼きもちを妬いてしまうタイプだから、清春が顔見知りの人と手を取って見つめ合っているだけでドキドキしてしまう。もちろん口には出さないし、態度にも出さない。けれど内心では、もし相手の子が清春のことを好きになっちゃったらどうしようとか、逆に清春が好意を持っちゃったらどうしようとか、そんな過保護のような過度すぎる心配性を発動してしまう。
 清春を信用していないと言われればそこまでかもしれないが、頭では分かっていても不安になってしまうのだ。そして安易に嫉妬してしまう。一人きりで誰にも言わず、清春が他の人と手を取っている間だけ少しの嫉妬に支配される。
 けれど清春にだって、私に対して同じような心情を抱いていることを知ったなら、それはもうお互い様だと少しは安心することが出来る。私だけの一方通行な押し付けではなく、恋人同士に生まれて当然の立派な感情。そうだと分かっただけでよかった。ダンスに私情を挟むなと怒られないだけマシだ。
「そっ、か……だったら、いいや。なんか安心した。はは、恥ずかしー」
「自分から言い出したくせに、恥ずかしーってなんだよ…」
 抱えたリュックに顔を埋める清春の耳は完全に真っ赤だった。つられて私の体まで熱がこもり始めるのが分かる。わざとらしく手のひらをうちわのようにして扇ぎ、小声ながらに「モテる人には分からないよ」と呟く。清春は何も言わない。リュックに顔を埋めたまま、しばらくした後に、誰が、と小さくこもった声が電車の扉の開く音にかき消されていった。
 私たちの降りる駅はここより2駅先だ。終電間際でも客の乗り降りは変わらず、座席は満席、立っている人はちらほらといった乗車率であった。車内チラシに目をやる。人気俳優に熱愛報道、有名政治家が年上女性と不倫など、世間も色恋ネタに関しては尽きることがない。
「まあでも、清春はダントツ人気だからなぁ」
 この人も例外ではない。綺麗に着飾ったダンサーや、あるいはファンの子たちの熱烈な視線を浴び続ける中で、本人は無自覚であるのが焦ったい。それが大前提なのだから、認知しているこちらがもどかしくて堪らないのだ。
「今日も即席カップル組みましょうってなった時、女性陣の7割が清春見てたもんね」
 数時間前の懇親会にて、こんな機会はそうないだろうと、自分たちはあくまで見ているだけの主催者がおもしろ半分に提案したのが即席カップルでのダンスパーティーだった。それもくじ引きのような公平なものではなく、踊りたいと思う相手へ直接願い出るというスタイルで、その提案を聞いた瞬間、私は頭を抱えた。清春にいたっては話を右から左で、興味のなさそうに大きな欠伸を2回もしていた。
 相手がいなかったらどうしよう。そればかりが脳内を駆け巡る。突拍子もない提案に不安に思うのは私だけではないようで、周囲を見渡すとちらほら視線を泳がせる者が数名いた。その中の私と真子ちゃんであって、出来るならば女の子同士で踊れたらなあなんて、視線で会話が成り立つほどだった。
 そして大半の女性は、獲物を捕らえるような目で清春をロックオンする。いつもより控えめのアイラインで、隠しきれない情熱をレーザービームのように飛ばし敵を牽制し合う。そんな静寂に包まれたしたたかな女の戦いの中心にいながら、清春はまたしても子どものように目を擦る始末だ。無関係の雫でさえも少し引いていたというのに、清春はいつまで経っても鈍感というか、無関心なところが抜けない。
 よーいスタート、という主催者の掛け声で運動会の借り物競走のようにそのゲームは開始された。清春のところへそれなりの数の女性が殺到する。そんな弱肉強食の光景を横目に、私と雫は顔を見合わせたのだった。
「真面目に圧倒されたよね。男の人もちょっと気にしながら相手探し始めてたし、私のとこなんかさぁ、」
「賀寿が来た」
「え」
 思わずぐるりと顔を向ける。清春はバツの悪そうな顔をして、さっと反対方向へ視線を逸らした。さっきから顔を背けられてばかりだ。それが男のプライドなのか、照れ隠しなのか、ポーカーフェイスの清春からは恋人の立場になっても読み取りにくいことが多かったりする。
「…見てたんだ」
「悪いかよ」
 あのメラメラと視線だけで殴り合いを始めそうな女性たちの中から、清春は見ていたというのか。迷い子のように声を掛けてくれと言わんばかりの私を。それはそれで情けない話だが、つまるところ相手の候補として私へと視線を向けてくれたのだろうか。そして私が差し出された賀寿くんの手を取ったのを見て、また欠伸を1つ、適当な女性の手を取ったのだろうか。
「なんか、喜んでた気がしたし」
 清春は耳が赤くなくなった代わりに、今度は唇を少し尖らせて言う。
「あいつが来たの、そんなに嬉しかったのかよ」
「そりゃあ、話したこともない人と急になんて緊張して上手く踊れないし、だからよく知ってる賀寿くんに声掛けてもらえて安心したというか、そんな感じだって…」
「ふーん」
 聞いているのか聞いていないのか曖昧に、興味のなさそうに清春が鼻息を立てたところでタイミング良く目的の駅に停車する。それからはごそごそと大きめの荷物を持ち上げ、どちらも無言で下車する。階段を降り、上手く荷物を傾けながら改札抜ける。
 清春とは出口が反対同士になるため、普段は改札前で一言二言交わし、手を振る。けれど今日はそんな気配はなく、清春は足を止めることなく私が利用する出口の方へと向かった。実は軽そうなリュックを背負い直し、ゆったりとした足取りで駅を出る。
「…コンビニでも寄るの?」
「違う」
 そう、と腑抜けた声が派手な電飾のカラオケ店の照明へと混じる。そのまま少し足を進めて、もう駅が例のカラオケ店の影に隠れた頃、清春は3歩後を歩く私へと振り返り頭を掻いた。
「家まで送る。変なやつがいて、手を取ってきたりしたら嫌だ」
 そんな馬鹿な。声にならない代わりに、近くの路地裏で野良猫がにゃあと鳴いた。世の全ての人間がダンサーならばありえないこともないが、それを言うなら変なやつがいて危ないからだろう。時間も時間だし、賀寿くんのような人-なんて言い方は語弊があるが-よりも不審者との確率の方が高い。
 私が追い付いたのを確認し、清春はまた歩き始める。荷物を持ってくれるわけではないけれど、歩幅を合わせ、リュックの紐をいじくりながら「疲れてないか」と恋人らしい気遣いを見せるところが憎めない。
「それを言うなら、逆に清春も帰り道、変なやつに遭遇してつけられたらやだ」
「そんなことあるかよ」
 馬鹿馬鹿しいと笑う。自分だけ言いたいことを言って呆れる清春は、街灯の減り始める住宅街で私の手を握った。左手に少し重いボストンバッグをぶら下げ、右手で清春の温もりを受け取る。今日は満月だなあと、夜の透き通る空気を胸に吸い込みながら、ほとんど星の見えない東京の夜空を仰いだ。
「夜遅いのに、送ってくれてありがとう」
 返事はせず、こくりと頷く。それから「さっさと帰って風呂入って寝たい」と重そうな瞼をギリギリのところで持ち堪え、何度か瞬きをする清春の手は子どものように温かくなっていた。洗濯機に放り込まなければならない荷物がリュックに入っていることも忘れて、柔らかい布団に入り、目を瞑ることしか考えていない瞳で帰路を歩く。
 男らしい態度を見せていても、まだあどけなさの残る清春を知ってしまうと、日々の嫉妬なんて大したものではないのかもしれないとよく思う。それはその時だけの麻酔のような感覚だが、私だけが知っているということが何よりの証明ではないだろうか。知ってか知らずか、情けない嫉妬に駆られた日に限って清春は私に触れようとする。けれどそれで救われているのだから、全ては清春の思う壺なのかもしれない。
 きっと今も隣の男は何も考えずにいるだろう。この手にどれだけ救われているか、この温もりがどれほど私に染み付いているか。何もかも知らない顔で、知ったような振る舞いをする。向こうに私の家が見えた頃、清春は私が大事に飼っていたもやもやの不安や心配を丸めてポイとでも放り込むように、満月を食べてしまうくらいの大きな欠伸で、夜の透き通った空気を吸い込んだ。同様に私も息を吸う。隣で同じ空気を吸い込めるだけで、実は何よりも幸せなのではないかと、恋人らしさの本筋に辿り着いたような気でいた。

by 朝の病

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