かつて永遠だったあなたへ

 おい、と仙石さんに肩を叩かれるまで時が止まったようだった。10秒間。私だけがその中で時の経過を感じ、それ以外の人は皆時計の針が止まったように停止しているような。そんな、私しか知り得ない空白の時を過ごしたような気分だった。
「続いての種目はタンゴです」
 自分たちの行動を促すアナウンスが耳を通り抜ける。仙石さんは何かやらかしたというような顔をして、気まずそうに頭をかいた。清春は素知らぬ顔だった。それが一番腑に落ちなくて、もう仙石さんたちが何か言うのも頭に入らない。
「だって、てっきり私、清春くんは彼女できたこと一番にちゃん言ってるもんだと」
「バッカヤロ!お前もうしゃべんな!」
 千鶴さんの口を後ろから塞ぐ仙石さんに「もういいですよ」と私は弱々しく笑って見せたのだと思う。第1ヒート終了後、清春に向かって「彼女が見に来てるんだから良いとこ見せな」と千鶴さんが激励したのが事の発端だった。
 清春に彼女が出来たらしい。仙石さんも、千鶴さんも、そのことは少し前から知っていたという。私は少しも知らなかった。パートナーなのに、一番近い存在だと思っていたのに。プライベートを干渉し合うわけではないけれど、皆が知っているのなら、どうして私には話してくれなかったのか。彼女がいるという事実もそうだけれど、私だけが知らなかったという結果に大きなショックを受けたのもまた事実だった。どうして。
、行くぞ」
 ドレスの輝きが現実へと引き戻す。私の名前を呼ぶ清春だけがまだ靄のかかった夢のようで、さっきの話も本当は夢なのではないかとすら思う。都合良くそう思いたいだけなのだ。自分自身を守るために。そうと分かってはいるけれど、まだ私は。
「…清春、」
 清春とはもう何年もずっと一緒にやってきた。話さなくても考えが分かるくらいには時間を共にしているし、相手がこれから何を言いたいのかもだいたいの想像がついた。それでも清春は何も分からないような顔をして、私の呼びかけに首を少しだけ傾け振り向く。次のタンゴを見据えた真剣な表情だった。
「ううん、後でいい」
 本当はずっと。清春が彼女と付き合うよりずっと前から。私は清春のことが好きだったなんて、今更どのタイミングで言えるというのだろう。片思いなんて簡単な言葉で片付けられるくらい、私は何年も正真正銘の片思いを貫いてきた。ここまでずっと、黙って、一途に、馬鹿の一つ覚えのように貫いてきたのだ。
 パートナーというのはダンス以外の、いわば恋愛感情などという私情を混同させてはいけないと信じ込んできた。私は清春のパートナーだから、暗黙の了解で恋人関係を望むことは出来ない。自覚してしまえばもう後には戻れないから、これは誰しもがパートナーに抱く感情と何ら変わりないのだと、自分に言い聞かせ続けてきた。気付いて、飲み込んで、抑えつけて。そうしてここまで清春のパートナーを築き上げてきた。それなのに、清春には彼女がいたなんて。私の気持ちなんてこれっぽっちも知らずに、反論する暇も与えないままあっさりと彼女を作っていたなんて。
 清春が右手を差し出す。そこへ自分の左手を重ねながら、ライトが反射するフロアへ一歩踏み出す。この瞬間がいつも特別だったのに、今日は何となく私だけのものだとは思えずにいる。脳裏にちらつく私の知らない女の子が、清春の影から顔を覗かせているようだった。
「このタンゴ、入るかも」
「ああ。俺もだ」
 通じ合うということも、分かっているのに。
 少し距離を開けて向かい合い、タンゴのリズムに合わせて清春がこちらへ向かう。それから少し遅れてこちらからも距離を詰め、真っ直ぐに伸ばした左手を清春の右腕の外側を通り背中へ回す。清春の右手もまた私の脇の下を通り背中へ伸ばされた後、私はぐっと体を反らせた。清春の顔は、すぐ目の前だ。観客は皆こちらを向いている。
 昔から、むしろ今の今まで、紛れもなく清春は自分のパートナーだと思っていた。それはパートナーという関係から入り、彼が私だけのリーダーだからなのか。カップルという絆や、ダンスといった垣根を越え、誰が見ても満場一致で変わらない事実だと思っていた。言い換えれば、それ以外の関係にはなれないと分かっていながら、今日までずっと手を取って、気付けば心までも寄せてしまっていたというのに。
 そして今。こんな小さな世界で、私と清春は確立した2人だと認識されているこんなにも小さな世界の中で、私はずっと、都合のいい夢に浸っていたのだと気付く。当たり前だと思っていたことが、いかに限られた人のみが知ることか。ダンスをしていない人、それは学校の友達だったり、親戚や、それこそ清春の彼女にあたる子にとっては、これっぽっちも知り得ないことなのだろう。そんな小さな世界の中で、清春といえば私、私といえば清春という方程式を確立していた。私の信じた私だけの清春は、本当に私の中だけで手を取る清春だったのだ。
 回りながらステップを踏み、2人で同時に外側の足を蹴り上げる。そしてまたステップを踏み、握り合う手に力が入る。時折、清春の汗が顔に飛んだ。呼吸までもがすぐそばで聞こえる。清春を軸にして私が回転し、停止したと同時に息を合わせて素早く顔の向きを変える。
 正直、清春が彼女を作るなんて夢にも思わなかった。私以外に時間を共有する女の子など、知りもしなければ考えもしなかった。もしも清春が今までに何度か、彼女という存在について考えることがあったとして。もしもその時に、一度でも、一瞬でも、私の姿が浮かんだことがあるとしたら。清春は私との関係を変えることはないと判断したのだろうか。パートナー以外の存在になる可能性はないと感じたのだろうか。
 勝手な憶測が頭の中を飛び回る。身勝手な予想に違いないけれど、それが嘘でもないような気がして胸が苦しい。唇が震えている。私が彼女になれないことを分かって、それがこの結果なのだとすれば。そんなの、ずるすぎる。
 ちらり、と。清春の鋭い瞳がこちらを見たような気がした。
「、……」
 私の名前を口走る清春の声が観客の拍手にかき消される。お願いだからその心配そうな瞳で、そんな考えは私の思い違いだと言い聞かせてほしい。は考えすぎるところがあるからと、呆れたように笑ってほしいのに。私から見える清春の長く伸びた首筋が、鋭い輪郭が、憧れるほど長く等間隔に揃った睫毛が、キリッと上がる眉毛が、宝石のように透き通る茶色い瞳が、もう他の誰かのものなんて。そんなことを信じたくはないのに、何故だか視界がぼやけ始めた。
 パートナーじゃなければ、彼女になれるのだろうか。パートナーだったから、彼女になれないのだろうか。それならばパートナーでなければよかっただなんて、今更何を思ってももう遅いのに。私を認めてくれている間は清春の一番でいられると錯覚していた。誰も入る隙などないと信じ切っていた。
 一歩一歩を力強く踏み込む。最後に清春に体重の半分を預け、体を大きく反らせてフィナーレを決めた。荒い呼吸に胸が上下する。スポットライトが眩しい。まだ視界がぼやけているけれど、これは汗が目に入ったのだと言い聞かせた。泣いているなんて自覚したくはなかった。
、なんで、」
 お辞儀をして頭を上げる。大歓声とともに会場がざわついているのが分かった。迫真の演技だと讃える声に、皆がこちらを見ていることに気付いた。しかしそれよりも。目の前で荒い呼吸を整えながら、その熱っぽい眼差しで私を見る清春から目が離せない。皆が私たちの虜だというのに、清春だけが動揺を隠せずにいた。
「なんで、泣いて…」
 清春の指先が私の目元を拭う。私は小さく首を振って、清春の手を取った。タンゴを踊りきったこの数分間、一体私は清春の何になれたというのだろう。
「清春……幸せにね」
 最初からこの言葉だけが言えればよかったのだ。清春の彼女になった子はきっと、一言目からそう言える子に違いない。素直によかったねと微笑んで、本当は私も好きだったのになあと悪戯に笑えたならば、ほんの少しでも彼女になれる資格はあったのだろうか。
「って、そう言えたらよかったんだけど」
 私にはそんなことは思えない。今清春の彼女がこの会場のどこかから私たちを見ていて、誰よりも近くにいる私に少しでも嫉妬していればいいのになんて、そんな人でなしのことを思ってしまうのだ。彼らの邪魔をする権利など、何一つないと分かっているのに。
「ごめん。私には、言えそうにない」
 遠くで仙石さんたちがこちらをうかがっている。フロアから外れ、客席下の通路で立ち止まった私はまだ清春の手を離せずにいた。ドクンドクンと心臓がうるさいくらいに脈を打つ。
 ずっと思い巡らせて、出した結論に少しだけ揺らぎが生じる。けれどここで立ち止まっては今までと何も変わらないではないかと、片思いを貫き通した過去の私が背中を押した。今からでも遅くはないだろうか。まだ間に合うだろうか。私と清春が繋がる小さな世界を大きく広げ、本当の世界にすることはできるだろうか。
「もう遅いかもしれないけど。すごい欲張りなこと言うし、手遅れかもしれないけどさ、」
 これがもう、清春との最後になるかもしれないと思った。今から言おうとしていることが、私たちにとってどれほどの溝を生むかも分かっていた。それでもまだ、震える声で伝えることが出来ているのは。取ったままの震える手を、清春が強く握り返してくれたことに気付いたからだ。
「私、清春の彼女になりたい」
 涙は出ない。今はドレスの輝きも忘れることにした。パートナー抜きで私を見てほしい。わざと手の甲でラメ入りのグロスを拭い取った。オールバックに髪を固めた清春が丸く見開いた目で私を見ている。永遠にも近い間貫いてきたこの気持ちが、どうか伝わればいいと揺るぎのない視線で清春を射抜いた。
 この間にも、彼女が清春のことを待っているかもしれない。私に嫉妬して、競技ダンスとはこんなにも体を密着させるものなのかと不満さえ抱いているかもしれない。それかもっと寛大な心で、かっこよかったと頬を染めて高揚しているかもしれない。そんな知らない彼女の存在を認識していても、私は前言撤回などしない。
 清春が思い出したように瞬きをする。薄く開いた唇が何か言おうとして、躊躇するようにゆっくり閉じられる。驚いたような顔ではなく、むしろ予想出来ていたとでも言い出しそうな表情だった。痺れを切らせた仙石さんがこちらへ向かい出す。それでもこの手を離したくはなかった。私は、清春の彼女になりたいのだ。

by エナメル

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