Between you and me,

 昔はよくこのスタジオにも通ったものだと、夕日が差し込むフロアを眺めながら壁にもたれかかる。室内なのにじんわりと汗が滲んで、夏も本番だなあとか、そんな呑気なことをしみじみと思った。この蒸し暑さがエアコンの効きが悪いせいか、目の前を何度も何度も過ぎ行く清春の熱気なのかは分からない。そのまま床に腰を下ろして、あと3回清春がワルツを踊り終えたら電気をつけに行こうと、ぬるくなったミネラルウォーターのキャップを回した。
 さっきからずっと、清春のシャドーが目の前をかすり通る回数だけ頭の中でホールドを組んでいる。けれどそこについていく私の影は見えなくて、とうとう妄想ですらついていけないのだと歴然たる差が私を嘲笑った。分かっている。清春の手を掴む日なんて、今までも、これからも、一度だってないことくらい。
「俺はとはカップルは組めない」小学生の頃、清春に言われた。雫に嫉妬した私が悔しさに泣きながらカップルを組みたいとせがんだ些細な出来事だったけれど、その言葉は小学生ながらにショックだった。清春と雫が唯一無二のカップルだなんてことは分かっていた。それを邪魔する気なんて少しもなかった。けれどその時は、情けでもいいからすぐに手を取ってステップを踏んでほしかったのだ。けれど清春はいつも通りの口調で謝り、それからすぐに雫の手を取った。「にもいいリーダーが現れるから」と、私にとっては突き放すに等しい言葉で慰めたのだ。
「なに、ぼーっとしてんの」
「清春。なんだ、終わってたの」
「ずっと目で追ってたくせに、気付いたら上の空みたいだったから」
 ぽた、ぽたと汗が滴り落ちる。シャツの袖でそれを雑に拭って、清春は片膝を立てて私の隣に腰を下ろした。
 私とカップルは組めない。今更、清春と組むこともない。高校生になり、中学生を辞めるのと同時に私はダンスも辞めた。ダンスが嫌いなわけじゃない。気の合うリーダーに出会えなかったわけでもない。誰を憎むわけもなく、私は自分からダンスを遠ざけた。誰かと比べられる世界が息苦しくなった。だから清春の練習に口を出すこともなければ、カップルを組むだなんて冗談を言う資格もないのだ。
 差し込む夕日がだんだんと細くなる。さっきまでオレンジに輝いていた清春は、その光を目に灯したまま息を整えていた。
「昔のこと思い出してた。私が清春に振られたやつ」
「振ったんじゃない」
「はいはい」
 収録されたワルツの演奏だけがフロアに響く。少し前の私なら、この歌好きだなあなんて、ひょうきんに踊って見せただろう。練習場には私たち二人だけ。他の人がいないこの部屋が突き抜けるほど広く感じた。開けたままのミネラルウォーターを床に置く。両足を真っ直ぐに伸ばし、天井を仰ぎながら指先でリズムを叩いた。
「明日、いっぱい人集まるといいね」
 清春たちは明日、区が開催する催し事に呼ばれ、そこでダンスを披露するのだという。町の活性化と社交ダンスの宣伝を担った大役らしいと、雫が笑いながら教えてくれたのだ。だから明日はめいっぱいの笑顔で、楽しげに、親しみやすいダンスを心がけるという。そう言っていたのは雫だったけれど、競うわけでもないのできっと、清春も伸び伸びと魅せるダンスを踊るのだろう。
 「私も見に行くよ」と言うと、清春は少し間を置いて、開けっぱなしだった私のミネラルウォーターを一気に飲み干した。空になった柔らかい素材のペットボトルを縦に潰し、ことんと自分の横に置く。
「…なあ、
 やけに清春の声が響いた。曲が終盤に差し掛かる。ここでホールドが崩れないように注意して、そのままの勢いでフィナーレへと向かう。頭の中のバリエーションがとても良くて、返事をしない代わりに私は視線を清春へ向けた。
「俺は、とはカップルは組めない」
 リズムを刻んでいた指先の動きが止まる。私は清春とはカップルは組めない。なんだ今更。分かっているそんなこと。余韻を残してワルツのメロディーがやんだ。曲が終わったのだ。
「なにそれ……ああ、もしかして、からかってる?そんなこと言って、また私が泣いてせがむのをおもしろがって」
「最後まで聞けよ」
 声を張るわけでもなく、決して怒るわけでもなく。動揺を隠せず一人で暴走し始める私を、静かに真剣な眼差しで黙らせた。分からない。何故清春は今更そんな言葉を使ったのか。いつもならそらしかねない目線を交わらせたまま、次の言葉を語りかけるかのように染み込ませてくるのか。分からない。
「パートナーにはなれない。それでも、他の関係にはなれるんじゃないか」
「他の…?」
 ますます意味が分からない。今清春がカップルの件をわざわざ口にしたのが何かの比較なのだとすれば、それは一体何なのか。言葉足らずだ。これは私は悪くないと主張したい。清春が曖昧に伝えようとするから。もっと分かりやすく、馬鹿な私でも理解できるように主語からしっかり教えてくれたのなら。私はこんなにも間抜けな顔で眉をひそめなくても済むのに。
 スタジオがぼんやりと薄暗くなっていく。私を捕らえる瞳が揺れて、長い睫毛が美しい。清春の次の言葉を待ちたい気持ちと、見つめ合うむずがゆさが相まって、勝負でもないのに目をそらしてしまったことが悔しかった。左手をついてゆっくり立ち上がる。お尻の骨が少し痛んだけれど、居たたまれない気持ちからそれはすぐに忘れてしまった。
 一歩踏み出す。この雰囲気はいけないので電気をつけなければと思った。清春からはまだ熱い視線を感じる。ああ、これはきっと、と思った時にはもう、清春が私の手首を掴んだ後だった。
「俺は明日、お前のために踊るから」
 言い聞かせるような声が全身に響き渡る。前を向くと、鏡に映った私たちが逆光で浮かび上がっていた。清春の表情が読み取れない。バクバクと音を立てる鼓動がうるさい。こんなことでは動揺までもが手首から清春へ伝わって、何もかもお見通しになってしまいそうだ。
「だから、」
「わっ…ちょ、ちょっと」
 そのまま体を引き寄せられる。立ち上がった清春が私の腰を引いたかと思うと、気付けばホールドを組まされていた。清春の靴底がキュッと鳴り、私のスリッパの片方が脱げた。もう目をそらすことは出来ない。
「だから、しっかり見てろ」
 今以上に、もっと。飽きるほどに俺を見ていろと言わんばかりに沈黙が訴える。清春はこんなことをさらりと言う性格だっただろうか。ここにきて清春が全然分からない。頭の中がどんどんこんがらがって、じわじわと清春への気持ちが色鮮やかになっていく。
 私のために踊ってくれるのならば。だったら穴が開くほど見てやろうじゃないか。その代わり、しっかりと躍り終えた後は全てを言葉にしてもらわないと分からない。
 今度は真っ直ぐに目の前の清春を見て、「私バカだから、清春を見てるだけじゃ分からないかもよ」とおどけて言うと、彼はあの挑戦的な顔で「嫌でも分かるぜ」と口角を上げて笑った。清春のこんな顔が好きだった。鋭くて優しい目が愛しかった。明日になって、きっと打ち明けられる言葉を想像してみる。私のことを思って踊る清春の気持ちを考えてみる。そうすると少し不思議な気持ちになって、途端に心臓が跳ねるように頰が火照り出した。清春の長い睫毛が少し震える。合わせた指先に力が入る。明日になれば。きっと私たちの関係は。
 暗闇に包まれるスタジオで、私たちはまだ動けずにいた。

by fynch

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